(本稿については柏原祐泉師『三帖和讃講義』からの抜粋)
御清書本によると、この和讃には題号がない。けれども和讃全23首の終りに「巳上二十三首、仏智不思議の弥陀の御たちかいをうたがをしらせんとあらわせるなり」とあり、また御草稿本の終りに「巳上疑惑罪過二十二首」とある。それゆえ古来「疑惑罪過和讃」と称している。その意味はけだし御清書本末尾の終りの文で明らかである。
「疑惑罪過和讃」は二十三首ある。その全体は下記のとおりである。初めの二十二首は正しく仏智疑惑の罪過を挙げ、終りの一首で、この疑惑を捨てて他力不思議を信ずべきことを勧めておられる。仏智疑惑の罪過を挙げたまう二十二首のうち初から第九首までは、広く疑惑往生の欠点を数えておられる。即ち第一首には辺地に留滞して報土に進み得ないことを、第二首には報仏恩の思いなきことを、第三首には仏法僧の三宝を見聞しないことを、第四首には空しく長年劫を過ごすことを、第五、六、七、八首には七宝の獄牢に閉じられることを、第九首には大悲心を得ずして衆生を教化(きょうけ)せざることを数え挙げられた。そして第十首には、善導大師が、この化土往生を貶斥(へんせき)せられたことを述べておられる。進んで第十一首より第十六首までの六首においては、重ねて胎生(たいしょう)の因果等についての欠点を指摘せられた。即ち第十一首には胎生の原因を示し、第十二、十三、十四首には胎生の果報の損失を数え、第十五、第十六の二首には、疑惑の往生が化土に往生すべき所由し、化土往生を胎生と名づけらるべき所由を述べたまうた。
更に第十七首より第二十二首は、詳しく『大無量寿経』智慧段における弥勒菩薩道と釈尊との問答を抄出して、今まで述べて来たところに誤りなきことを証拠立てられたのである。これ、宗祖聖人がいかに仏智疑惑の恐るべきかを知らしめんための老婆親切である。
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