心開することを得つ(『大無量寿経」』)

心開することを得つ(『大無量寿経」』)

2013年8月22日木曜日

パート2

「本多立太郎さんを囲む会」に当って

二、何を語るか(本多立太郎)
語り始めて気がついたのですが、戦争体験をかたるということは両刃の劔だということです。語り方によっては全く正反対の結論が出ます。ただ事実だけよという語り方でもその事実の選び方によっては軍国美談にもなりかねない。手柄話に終る恐れがあります。何の為か、です。

私はできるだけスローガンめいたことを入れないようにしています。「反戦、反核、平和」とか、または「忠君愛国」とかそういう言葉を避けています。ただ、六十年前ごく平凡な一市民のごく平凡な日常に突然舞い込んだ赤紙、一枚の召集令状によって変わってしまった人生を振り返りながら、「戦争とは別れと死、それ以外に何もない」と語り始めます。先ず自分や戦友の家族や愛する者との別れ、そしてその果てに待つ無数の死について、また、死よりも怖い「戦場の狂気」についても実例を挙げて語ります。今日では到底考えられない振舞も戦争の名によって赦されたこと、揚げ句の果てに私自身この手で他人の命を奪ってしまったこと、その時手に付いた血は洗えば落ちますが心に受けた傷は死ぬまで消えません。もう遠からずこの傷を抱いたまま土に入らなければならぬのは、実に無念です。しかもその責任は果されていない。終りに、何よりも命を大切に、生きることの歓びを自覚して下さい、と結びます。

三、戦争を体験したものが今日をどうみるか、その一人としての考えを率直に述べます。もちろん一元兵士の感慨であってこれが正しいとか、こうあらねばならぬとか、そういう大それた考えは全くありません。一1千層体験者の感想をご参考までに申し上げるということです。知人の哲学者鶴見俊輔さんは私の出前噺についてこう語って下さいました。

「この出前噺が五百回くり返されもくずれないのは三つの根拠がある。ひとつは自分をよんでくれた相手(ひとりでも)の眼をみてはなすということ。ひとつはこの出前をやろうと心に決めた時から自分の孫に自分の戦争の記憶を残そうというはっきりした個人の動機に支えられているということ。ひとつは、「戦争というものにひとつの特質がありまして事実そのものをかたればそのままそっくり戦争批判になるという…これは戦争の特質だとおもいますが、回を重ねてみてつくづくそう思われてなりません」と述べられてように出前噺の性格から来る。こうして本多立太郎は、七十二歳で思い立ってから今日まで五百回をこえる出前をつづけてきた。気をつけてきたことは、自分の目で見、耳で聞き、肌であじわったことをそのまま事実として伝えることである。このも魔標をかえないならば五百回語っても、出前噺は紋切り型の機械的なくさりにとってかわることはない。(一九九五年五月「声なき声たより」93号より)  
この過分のお言葉を大切にしてつづけたいと思います。            本多立太郎

ごあいさつ(願生舎主)

ごあいさつ(願生舎主) 皆様ようこそ。講師の本多立(りゅう)太郎さんのことにつきましては詳しくは『囲む会』栞(しおり)」のとおりでございますが、いま栞の初ページに貼付の「囲む会」趣旨の拙文を転用してご紹介に代えます。
本多立太郎さん九十四歳。和歌山県日高郡みなべ町にお住いの人。「囲む会」開催の動機は「人生意気に感ず」だがそれだけではない。ここに真実の人がいる。「今、もっとも輝いて生きている人」。親鸞聖人七五〇回ご遠忌のサブテーマ「凡夫を生き抜く立脚地」にもっともふさわしいと思われるから。
本日は本多さんのお話しを皆様共々じっくり拝聴したいと思います。ではよろしくお願いします。

以下本多立太郎さん

ただいまご紹介にあずかりました本多でございます。まだ百歳に達していません。(笑)ご縁がありましてきょうお伺いさせていただきました。ここにまいりましたのは特別の役割とか世のため人のためというような殊勝な気持ちは実はまったくございません。世のため人のためというのは今から七十年前にお釣りがくるほどやらされています。私が戦争出前噺を始めたきっかけ。それは何処ででも申しておりますが「孫が可愛い」の一語に尽きます。

【孫にたいする「日記」(注前ページ参照)】。それが嵩じ嵩じてて人様にお話しするようになったのでございます。あれは1986年の2月11日の寒い夜のこと、京都東山郵便局の皆さん五十人ほどのを前にしてお話したのが最初でした。ところがこれがマスコミの取り上げるところとなって出前噺の注文が増加し、延々と続いて今年1200回に達し、今回は1229回目になりました。「なった」というより「なっちゃった」感じなのです、いつの間にか。
おことわりしておきますが私は先生と呼ばれるのが大の苦手でございます。私は教師でもなければ医者でも弁護士でもなく、皆さんと同じ庶民の一人です。ですからこういうふうに皆さんの前に立つことは分に過ぎたことであり僭越きわまりないことと今も思っております。したがってこれから申しあげることも次元の高い話しではなく七十年前の戦時下において私が目で見、耳で聞き、肌で触れた事実だけを皆さんの前にそっと置くだけです。それ以上の器用な真似(まね)は私にはできません。あくまでも体験したことを申し述べるだけです。どのように受け取っていただくかはいうまでもなく皆さんのご自由です。

私は1914年(大正3)に北海道は小樽の生まれ、数えて九十四歳です。なろうと思って九十四歳になったのでなく自然になったのであります。今も六十、七十となにも変わらない気持ちです。
小樽で生まれて札幌で育ち二十歳で兵隊検査というのを受けました。現代は男女二十歳で成人式ですが、当時は男子二十歳で受けねばばならないのが兵隊検査。
それは全身素っ裸にされて厳重に調べられる。どこも悪いいところがなければ甲種合格。甲種合格になればその年に兵舎に集められ軍服を着せられ、銃を持たされます。これを現役兵といいます。一番年齢の若い兵隊であります。

検査の結果は「第一乙種補充兵」。理由は近視と偏平足。第一乙種補充兵(略して第一乙という)に次いで第二乙種補充兵があり丙種、丁種、戊種と続くのでありますが、第一乙種補充兵は、甲種合格の兵隊が足りなくなったら真っ先に呼び出される種類の兵隊です。それで私は二十歳で軍服を着なくてすみました。軍国主義の流れの中、父は「倅よ、甲種でなくてよかったな」と言いました。そして父は私に上京を命じます。

私は父の旧友が編集局長をしている新聞社(東京本社社会部)に就職し、昼は働き夜は学ぶ、当時はこれを苦学生と呼びましたが、そんな生活に入りました。ところが勤め先は有楽町の新聞社。場所がわるかった。


夕方になると銀座の青い灯・赤い灯がチカチカします。とても電車通学どころではない。(爆笑)。おかげで早稲田を中退しましたが、それはオレが悪いのではなく場所が悪かったんだと(笑)。そうこうするうち1939年(昭和14)二十五歳の5月のある日、上司から「電報がきたぞ」と告げられハッとしました。
「いよいよ一巻の終わりか」と震え上がりました。というのは1931年9月18日にいわゆる満州事変が始まり、その後ずるずると北支事変、上海事変、支那事変と拡大を重ねていったのであります。
毎日沢山の兵隊が中国大陸へ送られていました。毎日「勝った勝った」の報道ばかり。だが不思議にも戦争は終らない。戦火は拡大の一途。
さて本題、おそるおそる電報を開いてみると「オメシキタ、スグカヘレ、チチ」。ある小学校でこの話をしたら一年生の坊やが「わかるぞ、ご飯だから帰れだろう」と言いました(大爆笑)。
いよいよこれでおわりだなあ」と思いました。そしてハッと気がつきました「そうだ、あの娘にお別れをいわなくちゃならない」。二十歳で上京して五年間、ヒマさえあればそこへ往って一時を過した相手に最後の別れを言おうと。やがてその日の夕方、会社を飛び出し雨の中を傘もささずに目指すは銀座裏の小さな喫茶店。ドァを排して店に入ってハットした。当の相手の人が私を見るなり驚きをあらわにしました。
なぜなのか。それはその女性(店主の娘)は私の頭を見て直感したのでした。
当時の若者は召集令状(赤紙)を手にしたときに真っ先にすることがありました。それは頭髪を短くすること。
私も電報を受けてすぐ新聞社社地下室にある床屋で長髪を切り坊主頭にしていたのです。だから彼女は私を見るなり召集令状(赤紙)がきたことを悟ったのでした。そのとき私はむしょうに喉が渇いていたので「水」と言いました。
お盆をカタカタさせて彼女はコップの水を運んできました。彼女はテーブルを挟んで私と向き合いました。なんにも言わずにただ見合わす顔と顔。
実は私は毎日のようにその喫茶店に通い、彼女と話しコーヒーを飲み、クラシック音楽を聴くのを楽しみにしていた。彼女が好きだった。
しかしこれまで口に出すことができなかったった。言うのは今だ、と思ったが言葉にならない。彼女もそうだったらしい。なんともじれったい。やがて彼女はポツリと「おめでとう」の一言。
私はすなおに「うん」とうなづきました。当時の若者は召集令状を受け取ると「天皇陛下の命令により」「天皇陛下のおんために戦って」「名誉の戦死をとげる」ことがまさに男子の本懐であると信じこまされていた。そういう名誉な機会を与えられたのであるから「おめでとう」という。

召集令状のことを、よく「一銭五厘」といいますがあれは間違い。実際は郵便ではなく役所の職員が一軒一軒訪ねて「お宅の何某さんにお召しがきました、おめでとうこざいます」と言う。
受け取る人は玄関に正座して「ありがとうございます」とニコニコして受け取る。やがて隣り近所の人たちが「おめでとう、おめでとう」と集ってくる。いよいよ出発の時間になると日の丸の旗を襷(たすき)がけにして胸を張って「往ってまいります、留守中よろしくお願いします」と挨拶をして駅に向って歩く。
その後から町内の人らが万歳万歳と旗を振り軍歌を歌い、いかにも賑やかに送っていく。これを「出征風景」と言いました。日本国中いたるところで「出征風景」が繰り広げられました。ご年配の皆さんなら心当たりがあるかも知れません。
それはいかにも華やかな光景でありますれども、本当に目出度いことかというととんでもない。昨日結婚したばかりのお婿さんでも「少し待ってください」というわけにはいかない。昨日赤ちゃんが生まれたばかりの若いお父さんでも「二、三日赤ん坊を抱かせてください」というわけにはいかない。
赤紙(召集令状)には「何月何日何時までにどこそこへ入隊せよ」とあり時刻には一分一秒の猶予がありません。いかなる若夫婦であっても人前では自然な愛情表現などとんでもない、もってのほかのこと。(文責願生舎主・以下次号)





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