心開することを得つ(『大無量寿経」』)

心開することを得つ(『大無量寿経」』)

2013年8月14日水曜日

「本多立太郎さんを囲む会」に当って手記「私の『戦争体験出前噺』の内容について」

一、 何故語るのか。 
今日、小学校・中学校で語り始めるとき質問します。「君たち、家でおじいさん おばあさんから戦争の噺聞いたことあるかい。ある人手をあげてごらん」と言いますとこれが意外に少ない。核家族だからということもあるでしょうが、田舎の老人からというのも決して多くない。事実、私も殆ど話したことがなかった。家の倅も高校生くらいまで私に兵 があるなど知らなかった。こんな生意気な事を口にしたくらいに。「うちの親父が兵隊なんだから日本も戦争負けるはずだよなあ」って。それが突然語りだした。家どころか学校や町の集まりや遠い国まででかけていって語りだした。それにはきっかけがあります。 今から二十年余り前家で書きものをしていてふと椅子を廻し背後の長いすに毛布にくるまって眠っててる孫の寝顔を見ました。まあ誰でも同じと思いますが孫ほど可愛いものはない。玩具でも菓子でも欲しがるものはホイホイと、母親がイヤな顔をするほど買って与えている。しかし、その時私が感じたのは本当に孫に必要なのは菓子や玩具ではないんじゃないかか、やがて彼が成人して社会に独り立ちする時側から支えてやることが必要だろう、しかしその時オレはもうこみの世におらん。その時できないとすればいましておいてやることはないか、と気付いた結果、始めたのが彼にあてた日記です。何故日記かと言えば彼が中・高校生ぐらいになったとき彼にあてた社会科の教科書、これが頗る怪しい、家永三郎さんの教科書裁判や最近の中国侵略を進出に書きかえ、中国から抗議されて慌てて侵略に直したというような文部省が彼に与える教科書です。うっかり洗脳されて妙な若者にされちゃあ大変と考えた結果の「日記」ではから、ただ事実だけ、自分の目、耳、手で触れた事実たけを彼に与えよう、という気持ちで書き続けます。丸十年 大学ノート二十薩 まだ手許にあります。 その日記を書いておるうちに否応なく戦争に触れざるを得なくなりました。何月何日、何年前のこの日、こういうことがあった自分はそのとき軍服をきてこんなことをしていた。孫に嘘を書いては何のための日記かということになりますから、ただ事実だけを正直に書きつづりました。その結果、副作用が現われました。孫ばかりではない、孫の世代いやその親の世代が戦争を知らない。やがて我々戦争世代が一人もいなくなった時ね男は二十歳になったら軍服着なくちゃ男になせねぇ、などと明なことを言いだす始末にならないとは補償できません。これは自分の身の廻りだけでも語り残しておかなければならないとふと考えました。 これがこの戦争体験を語り始めるきっかけでまさか延々十五年、七百回も回を重ねようとは夢にも考えなかったのです。こんな動機ですから、決して世のため人のためなどという大仰なことではありません 強いて言えば、孫可愛さの一念からと申し上げればよいでしょう。

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