本多立太郎さんの「戦争出前噺」(2)
ピンク色の召集令状に記入された何月何日何時までに何々部隊に入隊せよとの時刻にはⅠ分Ⅰ秒の猶予もない。ですからだれも見ていない夜に夫婦あい擁して「必ずご無事で帰ってください」「必ず帰るから何処へも行かずに待っていてくれ」と。これもまた日本国中どこでも見られた出征風景でした。明暗二つ、一つは建前であり一つは本音である。でもこの本音は絶対人前では見せられない。
人前ではうれしそうに旗を振り万歳〃〃といいながらも心の中では泣き叫んでいる。
これが当時の日本人のすがたでありました。ですからその娘さんもわたしに「おめでとう」と言いました。そしてわたしはうつむいて呻くように「今夜7時 上野駅」と二回言いました。彼女は「待って!」と言ってバタバタと奥にかけこみました。
残った私は別の人が運んできたコーヒーを口に含んで目を閉じました。二十歳で上京して二十五歳まで5年間、閑さえあればこの喫茶店へやって来て、一杯のコーヒーと好きな音楽と、そしてその娘さんの笑顔。ああそれだけがおれの貧しい青春の唯一の証しだったのか。
このまま戦場へ行って死んでしまったらおれの一生っていったい何だったのか。
気が付くと店に流れていた音楽の曲が代わっていました。それはフランス人作曲家ラベルの「ボレロ」。それは私の大好きな曲で、この店で必ずリクエストする曲でした。
その「ボレロ」が店内に鳴り出した。同じリズムの繰り返しでやがてヮーンと鳴って終るという東洋風の綺麗な曲でご存じの人も多いと思います。
私は「ああおれのためなのか」と。何だか胸の底から熱いものがこみ上げてきました。この曲「ボレロ」も今日で最後だなあと。そして曲が終った。ああ終ったなあと思ったら何と「ボレロ」が再び鳴り出した。二度かけてくれる。
それはとうとう言葉にならなかったその娘(ひと)の別れの言葉のように胸に染みて聞えました。歯をくいしばって涙をこらえて聴いておりますうちにヮーンと鳴って曲が終りました。そうしたらまたまた鳴り始めるではありませんか。
私は思わず立ちあがり「有難う、だがほかのお客さんに迷惑だからもういいよ」と大声で言いました。いつの間にか傍にきていたその娘さんがうるんだ声でこう言いました、「いいの マスターもほかのお客さんも。みんな貴方へのプレゼントです」と。それを聞いたらもう堪らない。歯をくいしばって天井を見つめ、涙をこぼし続けていた自分を昨日のことのように思い出します。
とうとうその日ボレロは五回続けて鳴ってしまった。その五回のボレロの間、私のうしろで声を忍ばせて泣いていた娘さんの姿を今もはっきりと思い出すことができます。その日の7時に上野駅を発ちました。会社の連中が胴上げなんかして送ってくれましたが柱のかげで白い顔をのぞかせていたその娘さんとはとうとう別れの言葉も交わさずそれっきりになりました。
私は二度目の召集で敗戦を北千島で迎えシベリアへ送られました。そしてⅠ947年(昭和22年)8月に舞鶴に帰ってきました。舞鶴から飛ぶような気持ちで東京へ。そして喫茶店のあった場所へ駆けつけました。見れば一面の焼け野原でバラックが建ち並び見知らぬ人が往来しているだけ。夕焼けの焼け跡で茫然とたたずんでいたのを今も思い出します。聞けばその喫茶店の一家は19945年3月Ⅰ0日の東京大空襲により全滅してしまった。あの五回のボレロが永久の別れとなったのでした。
これが私の最初に体験した戦争であります。今も人から「お前にとって戦争とは何だったか」と訊かれます。そのとき私はこう答える。「自分にとって戦争とは別れ、そして死である」と。
本多立太郎さんの「戦争出前噺」(2) 二十年間わたしを温かく育ててくれた家族やら友人やら学校の先生やらに囲まれた温かい還境からすっぱり切断して、戦争とは「個人を、殺人をもって目的とする集団の中へ放り込むものである」。まず別れがある。その果てに待つものは死である。「別れと死」そのほかにいいことなんか一つもない。以上が戦争によって最初に経験した別れであります。
私は故郷へ帰り軍隊へ入隊して3箇月の教育を受け、やがて中国(当時の支那)へ送られることになりました。われわれは軍用列車という兵隊を運ぶ専用列車に乗せられ、4人がけの席に4人きちっと座らされました。
目の前の駅のプラットホームを見ると一本のロープで仕切られた向こう側には群衆が手に手に日の丸の旗を振り軍歌を歌い兵隊の名を呼ぶなど騒然としております。しかし、われわれ兵隊はそれに応(こた)えることはできない。禁止されていたからです。手を振ってもいけない、声を上げてもいけない。ただジイーッと見ているだけです。
そのうちにふと気が付いた。隣りに座った田中という戦友はなぜか体を固くしてジーッと一点を見つめていた。かれの視線の先を見ると、そのロープに掴まった小母さんがいる。小母さんもかれの姿に気付いたらしい。背伸びしながらなにかを叫んでいる。横に十歳くらいの女の子。その子もやはり叫んでいる。耳を澄ませて聞くと小母さんは「マサキチやあー」と呼んでおり女の子は「あんちゃ―ん」と叫んでいる。あっ、かれの母親と妹か。「おいお前こっちに代われよ」とかれを窓際に座らせました。
しかしどんなに呼ばれても兵隊はこれに返事をすることができない。田中というその兵隊はただジイーッと母と妹を見つめるばかり。凝縮した時間が流れるうちに発車のベル。その時とんでもないことが起こった。小母さんがロープを潜って列車に近寄ろうとした。ところがその一瞬こちら側にいた屈強な私服の男性――トラブル予防のため駆り出された憲兵隊か警察の職員が小母さんを突き飛ばした。小さい体はコロコロと転がってコンクリートに叩きつけられました。その上に、あろうことかその男はおばさんの体に馬乗りになって押さえ付けた。
女の子も同じ。ところがです。それでもなお小母さんは必死に「マサキチや―」女の子も必死に「あんちゃ―ん」と叫ぶ。それは他人の私たちにも断腸の思いの光景でした。その時です。田中正吉が突然ピンと姿勢を正しました。遠ざかっていく母と妹に向って右手を帽子に当てて敬礼しました。兵隊は声を上げてはいけない、手を振ってもいけない。しかし兵隊は敬礼していけないはずがない。敬礼だけは許される。いかにも農村出身の青年らしくキッチリとした姿勢で、かれはいつまでも敬礼を続けておりました。
かれにしてみればこれが最後の別れという思いであったかも知れない。あるいは最愛の母と妹を自分から引き離す国家権力への抵抗の姿勢であったかも知れない。いずれにせよ田中正吉は二度と家族の元に帰ってくることはありませんでした。その日、同じ中隊から二十五人がその部隊に加わって中国へ渡りました。2年後、いったん召集解除になって帰ってきた時、一緒に帰ってきたのは2人。4、5人が負傷して先に帰った。
同じく4、5人が志願して大陸に残った。その他は田中正吉を含め沢山死んでしまった。まさに戦争とは「別れ」と、それに続く「死」であります。
本多立太郎さんの「戦争出前噺」(2) 戦友田中正吉の別れの光景を見た私はハッと気がついた。「待てよ、これは他人事ではないぞ」。と申しますのは私の家のある小樽は、札幌を出て小1時間(当時)で到着します。もし家族が見送りに出ていたらどうしよう。家族は父と父方の祖母の二人だけ。母に早く別れ、この祖母は母代わりになって私を育ててくれた恩人であります。もし見送りに出ていたらどうだろう。
父はまず大丈夫だけれど、私を目の中に入れても痛くないほどに溺愛して育ててくれたおばあちゃんが、孫との別れに耐えられるはずがない。田中正吉のお母さん以上に狂乱の姿を見せるのではないか。その時おれは一体どうすればよいか。どうしよう、どうしようと思っているうちに列車は小樽に着きました。ソーツと見渡したところ、しまった! ホームの中央に黒山のように栄町(私の家のある町)の見送り人がいるではありませんか。
その一番前に父と小さなおばあちゃんが立ってこっちを見ていました。しまったと思いましたがとにかく元気なところを見せて安心させようと、わざと首を伸ばしておばあちゃんの方を向いてニコニ・コニコニコしました。そうしたらおばあちゃんも私を見つけてニコニコ・ニコニコしておりました。父は苦笑いのような顔をしています。必死になってニコニコしておりますうちにベルが鳴り列車がゴトリ動き出しました。これはいけないと思いながらも最後まで一生懸命にニコニコしました。おばあちゃんと私がニコニコしているうちに列車はホームを離れ、やがて見えなくなりました。
ああやれやれと思いましたところ何となく物足りなくなりました。田中正吉のお母さんは狂乱して別れを惜しんだ。けれどうちのおばあちゃんは、あんなに可愛がって育ててくれたのに最後までニコニコしていた。やはり実の母と育ての母では可愛がりかたが違うのかなあと、そんなことを考えたのも事実であります。
正直そう考えた。
しかしそれが飛んでもない間違いであることに気付いたのです。それは一月ほどして父から戦地にいる私に始めて届いた手紙。手紙にはこう書いてありました、小樽駅ホームの別れの時、祖母は涙をこらえるのに精いっぱいだったらしい。あの日から一週間、飲まず食わず寝込んでしまわれた。祖母の涙は頬を伝わらずに胸の中を熱く流れたのだ。有り難く思え。
この手紙を読んで思わず声を上げて泣いてしまった。おばあちゃんは必死になって涙をこらえていたのだ。孫に恥ずかしい思いをさせてはいかん、悲しい思いをせてはいかんと一生懸命がんばった。だから我慢の糸が切れてとうとう一週間も寝込んでしまったのだ。
そんな有り難いおばあちゃんの気持ちも知らずに、可愛がり方がちがうのかなあと考えた自分が恥ずかしくて悔しくて、思わず声を上げて泣いてしまった。これがまあ私の体験した別れであります。そしてその別れの果てに待っているのは死である。戦争には無数の死があった。
ある日、われわれは隊伍を組んで行進していたとき休憩になりました。かっての軍隊ではこれを小休止と言いました。小休止の号令がかかって道端に腰を下ろして戦友と会話していました。ものの10センチメートルも離れていなかった。突然かれはウッと呻くやいなや前のめりに倒れました。びっくりして抱き起こして「どうした」と声をかけましたが応答がない。
弾丸は喉ぼとけの下から入って背骨へ抜けていました。入った部位は「射入口」といってぐっと小さく、出たほうの部位は「射出口」といっうんと大きい。弾丸は回転して体内を抉って体外へ出ます。真っ赤な血かドクドクと流れている。「しっかりせい」と背中に担ぎあげて道端の物陰に転がり込みました。
本多立太郎さんの「戦争出前噺」(2)
それを合図のように四方から弾丸が撃ち込まれてきた。「衛生兵、衛生兵」と呼び、かれの名前を呼んだ。しかし応答はない。かれはほとんど即死の状態でした。
ところがです。実はかれはまだ運のいい方だった。死んで運がいいとはまったく妙な話しでありますが、かれが死んだのは、われわれが中国へ渡り南京の近く某地点に兵舎を建ててそこに駐屯していた。その近くで襲撃され、かれは死んだ。ですから戦闘が終った後でそのなきがらを収容して翌日お葬式をしてお骨を故郷へ送り返すことができた。
これが作戦とか討伐とかといって隊伍を組んでどんどん中国大陸の奥地へ進んで行き、深い山の中、名も知れぬ山の中で戦闘が始まる、そこで戦死者が出た場合、できるだけ遺体を集めて駐屯地へ帰ってきますけれども、どうしても連れて帰ってこれない場合がある。そのときは遺骸の片手の小指を一本切り取ります。それを用意のこのくらいの小さな木箱に入れて白布で包んで、死んだ兵隊と一番仲のよかった兵隊が胸に吊るして持って帰ってきます。
残った遺体はそのまま名も知れぬ中国大陸の奥深い山の中に埋めてきます。ですから70年経った今、政府は遺骨収集が終ったと言いますけれども飛んでもない。まだまだ無数のなきがらが中国大陸の名も知らぬ山の中に、すでに白骨となった小指のないなきがらがまだまだ無数に埋まっています。
あるいは南海のジャングルで、あるいは有名なビルマのインパール作戦―ビルマ駐屯の日本軍がインドと国境の山を越えてインパールへ攻め込み、待ち受けたイギリス軍インド軍と戦って散々に負けて逃げて帰ったきた―わずか3週間分の食糧で山の中を3箇月彷徨した。その結果十万人のうち三万人が死んだ。そのほとんどが餓死である。今でもインドとビルマとの間の国境は白骨街道という名前がいまだに残っております。道の両側に日本の兵隊の白骨が累々と横たわっていたという。
そういう戦死者でも遺骨が帰ってきます。村の小学校で合同慰霊祭をやる。やがて遺族が骨箱を頂戴して帰宅する。骨箱の蓋を開ける。中にコロッとでも小さな骨が入っておればいいほうで、石ころが一つ。それもいいほう。中ははなにも入っていない、まさに空っぽのものもあった。そんなものを受け取らされた遺族の気持ちはどうだったろうか。おそらくそういう遺族にとっては60年経とうが、100年経とうが戦争は終っていない。今でもジャングルの中で北の空を眺めて泣いているのではないか。
実は私も死にかけた経験があります。銃をかついで歩いている時、突然左の胸をものすごい力でグッと捕まえて、ぐいと引かれたようなショックを受け、すてんとひっくり返りました。
思わず「やられた」。「本多がやられた」と戦友が駆け寄ってくる。中に気の早い者がいて「傷は浅いぞ、しっかりせい」と叫んだりしました。しかし気がついてみたらなんともなかった、兵隊服の左右の胸ポケットには金属のボタンが一つずつついています。
その左ポケットのボタンがちぎれて飛んでいた。下に穴が開いている。それでわかった。弾丸が右斜めから飛んできて金ボタンを飛ばして服に穴をあけて脇の下から後ろへ抜けた。
その角度が1ミリでも違っていましたらこうして皆さん方にお目にかかることがなかったに違いない。まさに生と死は紙一重であります。ところが戦場では死よりも辛いことがあったのです。(以下次業)
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