本多立太郎さん「戦争出前噺」(3)
実は戦場には死ぬことよりも辛いことがあった。こういうことがありました。作戦に従事中のある日、われわれは昼食をとることになり、私は川岸に行き川水でお米を研ごうとしました。
ところが川の流れの中にたった今の戦闘で戦死した中国兵の遺骸がうつぶせになって浮かんでいます。「こんなところでお米は研げない」と引き返そうとしました。すると私と一緒に川岸へ下りていった兵隊が片足あげて遺骸をポンと蹴りました。
遺骸はスーッと流れに乗って移動する。ところが後には遺骸の傷口から流れ出した血や脂があたり一面にギラギラ浮いている。見ているとかの兵隊は血と脂の浮いた水の表面を向こうに押しやり、飯盒のお米をシャッシャッシャッと研ぎ始めた。
再び血と脂の混じった水が近づいてくる。かれはそれを押し流してシャッシャッシャーとお米を研ぐ。
そんなことを3、4回繰り返し、やがてお米を研ぎ終わってスタスタと上がって行った。かれは決められた場所で飯盒炊さんしてご飯を食べたはず。だが私はできなかった。だから一食抜く結果になった。
どこの世界に人間の体から流れ出した血や脂が一面に浮いた水を押しやり押しやりしてお米を洗って炊いたご飯を食う人がいるものか。
そんなことは普通の人間のすることじゃない。ところがその兵隊は平気でやってのけた。
その兵隊は異常なのかというとそうではない。かれもやがて戦争が終って国に帰った後には表面的には平凡な市民にもどる。そんなごく普通の人間がいったん戦場へ行くと、とても考えられないようなことを平気でやってしまう。
これを私は「戦場の狂気」と呼んでいます。それは日本の兵隊ばかりではない。ベトナム戦争のときアメリカの兵隊がベトナムのジャングルで同じようなこと、いやもっとひどいことをやったかも知れない、戦争が終って故国に帰ったのはいいが戦争の後遺症のため社会復帰ができない現象が多発し「ベトナム帰り」という言葉がアメリカ社会にいまだに残っている。
しかし考えてみると昨日まで戦場でそんなことをやった人間が、きょう家に帰ってすぐにガラリと普通の人間に帰れるわけがない。普通の生活に帰れないのがむしろ当たり前でしょう。「ベトナム帰り」と酷評されるほうがむしろまともな人間ではないか。なにか人間という生き物の底知れぬ恐ろしさを感じさせられます。
さてこうして1986年2月19日から戦争体験談を延々と続けてきましたけれども、実は百回目くらいまでどうしても口にできなかった事が一つあります。なんでも正直に事実を皆さんの前におくという気持ちでお話しすると申しあげてきたけれども、しかしこれだけは口にすることはできない。とても恥ずかしくて悔しくてお話しできない事実が一つありました。
しかし百回目くらいからこれを語らなかったら自分の戦争体験を本当に語ったことにはならなという内側からの声が聞こえてきました。それゆえとうとう語り始めることになりました。
ある日われわれの部隊は10人ほどの中国の兵隊―捕虜―を連れて歩いていました。その時、四方から弾丸が打ち込まれてきました。とても捕虜を連れて歩ける状態ではない。ではどうするか。
一瞬「放してやれ」と隊長がいうだろうと思いました。ところがそうではなかった。隊長はただ一言「処分せい」と。そして捕虜を1人ずつ川の傍の水車小屋を背にして立たせた。しかも高手小手に縛り上げ身動きもできないようにして柱に縛りつけ、そうして次に兵隊に殺させる。命令された兵隊は10メートルほど離れたところから歩兵銃の先に銃剣をつけ、殺人行動に移る。
その兵隊はダダッと突進し、ヤアと叫んでグサリと刺して歩兵銃をサッと引く。捕虜の死骸をすばやく川に捨てる。これが隊長がいう「処分せい」の実体でした。なんという残虐。なんという非道。そういうとき、そういうことをやらされる者はだれか。それは年齢が一番若い、階級が一番下の兵隊です。そのときの私も中国大陸へ連れて行かれたばかりでした。だから絶対やらされる。
お互いに戦場で戦い、勝ったのならともかく、いま高手小手に縛りあげられ身動きできない人間を、自分の持つ剣付き鉄砲(銃の先に銃剣をつけた歩兵銃)で胸を突き刺して殺害する。これは男の恥である。男のすることではない、いや人間のすることじゃない。
しかし実行を命じられた兵隊がこれをことわったらどうなるか。隊長の命令に背いたらどうなるか。当時の日本には「陸軍刑法」という特別の法律がありました。
その中の「抗命罪」(命令に背く罪)。抗命罪の中でもさらに重い罪が「敵前抗命罪」。いま私が捕虜を殺せという隊長の命令に背いたなら、隊長は即座に腰のピストルを抜いてズドンと一発私を撃ち殺すことができる。それが隊長の責任であり権限です。「殺さなければ殺される」という絶体絶命の情況である。
だから私はやってしまった。私は剣つき鉄砲を構えて突進した。ヤアと叫んで相手の人の胸をグサリと刺しサッと銃を引いた。しかし一瞬相手の人と視線が合う。相手の人は真っ青な顔をして私の目を覗く。一瞬ニャッと笑ったような何ともいえない表情。命の極限の人の表情というものか。私は震えあがった。それはこころに焼き付いたまま生涯忘れることができない。
今でも深夜にアッと叫んで跳ね起きることが度々あります。それはあの岸辺の「米とぎ」の出来事と同じように私の心に深かぁい傷となって残っております。七十年経ってもそれは消えない。
私にそれを命令したのは隊長であります。しかし隊長の上には上級の隊長がおり、その上には司令官がおります。軍隊という組織はピラミッド型でりますから一番上の人は一人。私はその人の声を聞いたことはないけれども、罪を犯させた人は一番上のその人ただ一人である。その人は責任をとる必要がある。
だが責任をとらなかった。そのことを私は怒っている。その人は世を去った。だがその人の跡を継いだ人がいる。その人には責任も継いでもらわなければならない。
以上が私の戦争体験談です。だがそれは特別なことではない。いや沢山の人が私以上の辛い体験をされたに違いないと思う。戦争は天災でなくて人災であって地震・雷なんかじゃない。人間が引き起こした災いである、したがって最高責任者の立場の人にとってもらわなければならない。私は心からそう思っております。
以上体験した事実を申し上げました。
あれから七十年たってまだ私は生きております。そんな私として今日の社会を見てどう感じているか、何を考えているかということを申しあげたい。ただしこれはあくまで私個人の感想であります。したがってこれが正しいとか、こう考えねばならないとか、そんな大それたことではまったく無い。ただ一人の戦争体験者がこういう風に感じているということを参考までに聞いておいていただきたいのです。
私はいまこう思っています。まず二・二六事件について
それは1936年(昭和12)2月26日に起きた日本現代史上の最大事件が東京で起こったいわゆる二・二六事件です(注1)。そのとき私は東京におり、偶然にも事件に遭遇することになりました。
うちの孫に始めてこの話をしたとき「へえーおじいちゃんが」とまるで化石を見るような目付きをしたものですが事実なのす。
いわゆる反乱部隊が首相官邸や警視庁を襲撃して多数の要人を殺害しました。その中でマスコミ関係各社の中でただ一社、反乱軍の襲撃されたの新聞社があります。それが東京朝日新聞社。そしてそれこそ私が勤める職場でありました。
当時私は淀橋の民家の下宿におりました。その日の朝早く会社の上司の奥さんから使いの人がきまして「会社になにやら事件があっったらしく主人が家に帰れない。着替えの下着を届けてやってください」と風呂敷包みを渡されました。
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