承前
「はい」と答えてその風呂敷包みを持って戸外へ出てみてびっくり一面の銀世界の大雪であります。このため市電(当時東京の市内電車)は全面ストップ。これはいけないと風呂敷包みを抱えて徒歩で松阪から新宿、新宿から四谷、四谷から四谷見付へ。四谷見付から堀端へ出ようとしました。
ところが四谷見付の付近一帯にはピシャッと歩哨線が引かれている。銃を構えた兵隊が行ったり来たりして一歩も中へ入れない。何事が起こったのかと取って返して芝新橋から銀座へ、銀座から有楽町へ出たところそこにもまた歩哨線が引いてある。完全武装した兵隊が市民を看視しており、一歩も中へ入れない。このため取って返して芝新橋から銀座へ出て有楽町へ。ところがそこもまたピシャツと歩哨線が引いてあり私が毎日通勤している朝日新聞の周辺には反乱軍の兵隊が雪の上に重機関を据えて,腹ばいになって新聞社の社屋に狙いを定めています。
すでに重機関銃を使ったらしく建物の各所に弾痕があり、玄関の厚いガラスが木っ端みじんに砕けています。それを見たときの驚きと恐怖と怒り。「なんてことをするんだ」。国を守るはずの軍隊が、あろうことかおれの職場に銃弾を打ち込んだ。中で仲間が死んでいるかも知れない。ガタガタ震えながら真っ青になって涙をこぼしていた。
それから五十年経って同じ朝日新聞の阪神支局小尻記者殺害事件が起こりました。夜中に目無し帽をかむった男が入ってきて、いきなり銃を乱射して小尻記者が殺され、同僚の記者が重傷を負った事件です。この事件のとき朝日新聞は私のところへコメントを求めてきました。
私はこう答えた。「今から五十年前、あの2・26事件のとき本社を前にしてガタガタ震え涙を流していた自分の後ろに黒山の群衆がいた。当時のあの銀座界隈の街の人たちが怖いもの見たさに集っていた。その黒山の群衆はしかしシーンと静まり返って、まるで息をするのも止めしまったよう。それはまさに「沈黙の群衆」でありました。みんな腹の中では「なんてことをするんだ」「国のためにある軍隊がこんなことをするとは」と思っている。大きな声で叫びたい。しかし一声でも叫んだら隣りに私服の憲兵や警官や刑事がいないという保証はない。
いきなり襟首を掴まれてズルズル引き出されて警察の留置場へ放り込まれてしまう。あの「治安維持法」(注2)という法律のもとそれができた。だからあの沈黙の群衆は声を挙げたくても挙げられない群衆であった。しかし朝日新聞阪神支局の小尻さんの事件に対しては今なら声を挙げようと思えばいくらでも挙げられる。こんなときに声を挙げないほうがむしろ奇異というべきではないか。」 私のこのコメントは記事になった。
それからまた十五年、あの事件は犯人不明のまま時効になってしまいました。この十五年の間に世の中がだんだんだんだん変わってきました。いわく周辺事態法、いわくイラク特別措置法、いわく××法、いわく△△法。
やがてハッと我に返ったときには2・26事件のときのように声を挙げたくても挙げられない群集の一人になってしまっているのではないか。そうなってしまっては大変である。だが今なら声を挙げることができる。
今こそ声を挙げようではないか。こんなことを申し上げると必ずみなさまから声があがります、「そのためには一体なにをしたらいいか」、「私のような家庭の主婦にもできることはありますか」と。私は言下に答えます「あります、かならずあります」、それは「憲法9条を改悪させないことです」。
昔のように軍隊を造り、そうして国のためだといって子どもに軍服を着せるようにするためには日本国憲法の9条を変えなくてはならない。9条があるかぎりたとえ自衛隊が百万人になろうとも日本人は戦争ができない。ご存じのとおり憲法改悪のためのハードルは二つ。その一つは国会議員の3分の2以上の賛成。いまの国会で正面切って反対するのは共産党と社民党ぐらい。だから3分の2のハードルは眠っていて越えられる。
しかしもう一つのハードルは国民投票の過半数。だから国民投票の際に「ノー」といえる人を自分の周囲に一人でも多く持ちたい。銀行員の経験から私は数字に関心があり、試しに計算したところ、1人の人が1日に10人に、10人の人が1人それぞれ1日10人にというふうに。その結果8日で1億人になりました(笑)。口コミが大切です。でも限界があります。ではどうすればよいか。答えは簡単。話題を豊富にすることです。会話の中でさりげなく憲法9条を話題にすればよい。話題を豊富にするにはどうすればよいか。これもまことに簡単。いい本を読むことです。ではどんな本を読んだらよいか。
推薦したい本が三冊あります。(板書)
一 吉野源三郎『君たちはどう生きるか』(岩波文庫)
二 日高六郎『戦後思想を考える』(岩波新書)
三 鶴見俊輔『教育再定義の試み』(岩波書店)
時間がまいりましたの終ります。ご清聴ありがとうございました。
注1 二・二六事件
1936年2月26日、陸軍の皇道派青年将校らが国家改造・統制派打倒を目指し、約千五百名の部隊を率いて首相官邸などを襲撃したクーデター事件。内大臣斎藤実・大蔵大臣高橋是清・教育総監渡辺錠太郎らを殺害、永田町一帯を占拠。翌日戒厳令公布。29日に無血で鎮定、事件後、粛軍の名のもとに軍部の政治支配力は著しく強化された。
注2 治安維持法
国体の変革、私有財産制度の否認を目的とする結社活動・個人的行為に対する罰則を定めた法率。1925年(大正14)公布、28年(昭和3)改正。さらに41年全面改正。主として共産主義運動の抑圧策として違反者には極系刑主義を採り、言論・思想の自由を蹂躙。45年廃止。(いずれも「広辞苑」から)
司会者から 活発な質疑応答がありましたが割愛します。著書頒布がありサインを求める人が多くそれは賑やか。ご推薦図書については市立図書館に蔵書あり、順次借用して現在講読中です。
本多立太郎さんの消息(ヤフー「リベラル21」による)
2010.06.05「戦争の語り部」本多立太郎さん死去
外国での「憲法9条手渡し運動」を提案
岩垂 弘 (ジャーナリスト)
「戦争体験で前噺(はなし)」で知られた本多立太郎さんが5月27日に亡くなった。人生最後の仕事として本多さんが意欲を燃やしたフランス・パリでの「日本国憲法9条手渡し運動」はついに実現しないまま、その類い希な人生は閉じた。本多さんが終生抱き続けた願いは、私たちに課題として残されたといえる。(下略)
次回予告 改題新出発「老いの青春」加州願生舎 9月19日
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