心開することを得つ(『大無量寿経」』)

心開することを得つ(『大無量寿経」』)

2013年10月17日木曜日

パート8

往年の拙聞法紙に掲載の『光徳寺訪問記』から
①光徳時寺訪問
10月は旅行の季節。先に有志の皆さんと一緒に富山県福光町にある版画家・棟方志功ゆかりの真宗大谷派光徳寺を訪ねて多数の名作を拝見した。傑作『華厳の松』は二間半、襖四枚続き六尺の大きさ。棟方志功の旺盛な制作意欲が画面に横溢している。『女人観世音版画柵』も良かった。
②「な言(い)いそ明日と」
この言葉は光徳寺庫裏の玄関に掛けられた色紙に書かれたいた。承れば柳宗悦の「心偈」七十二偈の中の一句で本人の自作とのこと。作者の心のこもった言葉に違いない。柳宗悦といえば有名な民芸運動家らしいが詳細は知らない。だが何と含蓄ある言葉ではないだろうか。
③「明日ありと思う心の仇桜」
親鸞聖人作と伝えられる和歌に「明日ありと思う心の仇桜 夜半に嵐の吹かぬものかは」がある。子供のころ父がよく聞かせてくれた。先の「な言いそ明日と」は「明日があると言ってはならない」の意味にとれる。とすれば上の和歌の心と一緒である。人は生きてきたように死んでいく。大事なのは「今日」一日である。くだんの色紙を前にして同行の人らとうなづき合った。(以上)

それから十星霜余り経過した今、なぜかしら「な言いそ明日と」に心引かれて図書館勤務の知人に相談したところ、柳宗悦の著書「南無阿弥陀仏」付「心偈」(岩波文庫)の蔵本ありとのこと。さっそく拝借して一読した。その後購入。

問題の「な言いそ明日と」は「心偈」第三十三章の題名である。具体的は下記のとおり。なお知人は棟方志功の作品写真集についても教えてくださったが、その中から今回は「女人観世音版画柵」を抽出してご紹介する。(末尾掲載)。

柳 宗悦 (やなぎ むねよし)
民芸研究家・宗教哲学者。東京生れ。東大卒。雑誌「白樺」創刊に関わる。のち文芸運動を提唱。日本民芸館を設立。(一八八九~一九六一)
岩波文庫「南無阿弥陀仏」の帯紙から
南無阿弥陀仏という六字の名号が意味するものを説き明かしつつ、浄土思想・他力道を民芸美学の基礎として把え直した書。なかでも、日本における浄土思想の系譜を法然・親鸞・一遍とたどり、一遍上人をその到達点として歴史的に位置づけた点は注目される。柳宗悦晩年のさいこ最高傑作であり、格好の仏教入門書である。(解説・今井雅晴)

柳(やなぎ) 宗悦(むねよし)著「南無阿弥陀仏」付「心偈」から抜粋。
三十三、ナ 云ヒソ 明日(あす)ト
「云ふ勿(なか)れ、明日と」ということである。「今ヨリナキニ」を裏から、異なる言葉で述べたのである。今日の仕事は、今日いっぱいの仕事にすべきである。昨日も明日もない。今日が仕事全体となるべきである。聖書にも「明日の事を想い煩(わずろ)う勿れ、今日のことは今日にて足れり」というが、実は今日この時をおいて、生活の内容はないわけである。「今日にて足れり」というが、今日が全体、全体が今日に煮つまってこそ、生活に充実があるのである。孔子(こうし)は「晨(あした)に道を聞かば、夕に死すとも可なり」といったというが、深い体験の言葉だといえよう。今に活くれば、死も死ではなくなる。死への恐れは、明日を予想するからである。明日の有無がどうでもよくなるのは、今日この時に全生命があるからである。即今に活くる者には、明日は圧力を持たない。だから晨に道を聞くことが出来れば、その夕に死んでも、心に乱れはない。安心(あんじん)とは、今日を把握することである。それ以外にはあるまい。
語註 
安心(あんじん) ①信仰により心を一所にとどめて不動であること。②弥陀の救いを信じて一心に極楽往生を願う心。(広辞苑)。
心に安らぎと満足があたえられること。また、安らぎをあたえられた心の状態。(真宗新辞典)

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