心開することを得つ(『大無量寿経」』)

心開することを得つ(『大無量寿経」』)

2013年12月26日木曜日

パート18

国歌「君が代」と私
 私は1924(大正13)年生れ。アジア太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦時は21歳。それまでの私の精神生活を支えた第一は「教育勅語」であり、第二は国歌「君が代」であった。「教育勅語」については次のとおり。
 注 教育勅語 明治天皇の名で国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した勅語。1890年(明治23)10月30日発布。御真影とともに天皇制教育精神の主柱となり、国の祝祭日に朗読が義務づけられた。一九四八年、国会の排除・失効確認を決議。正式文書では「教育ニ関スル勅語」。(広辞苑から)。
追記 戦後の昭和22年に「教育基本法」が制定され、次いで23年に国会でこれ(教育勅語)が排除・失効確認の決議がなされた。かくて日本国民は教育勅語の繋縛(けばく)から開放さたることとなった。
かつての私の精神生活を支えた第二のものは国歌「君が代」。そしてこれは敗戦の翌年1月1日の天皇の人間宣言によって天皇の権威は消滅した。この時期を境いとして、私はこの歌を本気で歌ったことはかつて一度もない。だが今回、改めて「君が代」について考察を試みることにした。
「君が代」とは(広辞苑から)
事実上、日本の国歌として歌われる楽曲。歌詞は「君が代は千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」で江戸時代の隆達節の巻頭第一にあるものと同じく、さかのぼれ ば古今集に初句を「我が君は」とした和歌がある。作曲は1880年(明治13年)宮内省。93年、小学校における祝祭日の儀式用唱歌として公布され、明治憲法下で天皇治世を祝う国歌として歌われていた。

(「君が代」)弓狩匡純「国のうた」から
 君が代を最初に選んだのは大山巌 *舶来の音楽の「オ」の字も知らなかった日本が「君が代」を作るきっかけとなったのは1869年(明治2年)9月4日に英国王子エジンバラ公が来日し天皇陛下に謁見された折であった。それまでは「国歌」という概念さえ持ち合わせていなかった時代である。横浜に駐屯していた英国の軍楽長のジョン・ウイリアム・フェルトンが、軍楽隊(鼓笛隊)のノウハウを学んでいた薩摩藩の青年たちに「日本も国歌を作るべきだ」と進言。当時、砲兵隊長を務めていた大山巌(後に元帥)が早速「古今和歌集」に「詠み人知らず」として、長寿を祝う「賀歌」の筆頭に収められていたこの歌を選び(厳密に言えば彼らが愛唱していた琵琶歌「蓬莱山)に引用されていて「君が代」)、フェイントンに作曲を依頼した。1872年(明治3年)9月8日、閲兵式で薩摩藩の軍楽隊によって「君が代」は始めて演奏される。国歌はできてが、付け焼刃で作られたため、たいそう評判が悪かった。そこで海軍の軍楽長であった中村裕輔の提案により、海軍省は宮内省雅楽課に改めて作曲を依頼する。これを受けて宮内省の怜人(楽人)の奥好義らが作った旋律を一等怜人の林廣守が補訂。さらに海軍軍楽隊の教師として赴任していたドイツ人のフランツ・エッケルトが吹奏楽譜として編曲し直した。この曲が我々の耳にする「君が代」であり、1880年(明治18年)に改訂される。正式に国歌として制定されたのは1999年(平成11年)
の「国旗及び国歌に関する法律」による。ただし「君が代」の成り立ちには諸説があるため、政府としては正式な見解は出していない。(以上「国のうた」全文)。
 終りに中沢啓二作の漫画「はだしのゲン」から、「君が代」に対するゲンの糾弾の叫び声を紹介する。すなわち次のとおり。そしてそれは筆者の気持ちを代弁するものでもある。
 1「そうじゃ 君が代なんかやめりゃいいんじゃ」「あのしんきくさくて、ねぼけた歌を聞くと、ねむとうなるわい」。2「日本の音楽家はなにをしとるんじゃ、楽しくて活力がわいて、本当に心から歌いたい国歌がつくれんのか」。3「日本は新憲法が出来たんじゃ、それにふさわしい国歌をつくりゃええんじゃ」。(別紙添付下記)              以上

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