フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の思い出
平成二十年夏のある日、加賀市山田町にある光闡坊(真宗大谷派)で「国際交流」の集いがあり私も出かけた。開会前に行ったつた私は光闡坊大広間に備え付けのピアノで独り演奏を楽しむフランス人青年に出会った。かれの名はルロア。私はたまたま和田稠作詞、、小松康助作曲の「三帰の歌」を携行していたので、これ幸いとルロア氏に演奏を願った。かれは快諾して弾いてくれて演奏後「いい曲ですね」と言った。次にラベル作曲「ボレロ」を所望したところこれは暗譜で演奏してくれた。私は続いてフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を所望した。ところがかれは言下に峻拒。理由は「歌詞が残忍だから嫌い」と。これは意外。私は何も知らなかった。翌日、私は最寄りの図書館で弓狩匡純著「国の歌」を見つけ「フランス国歌」の項を読んだ。見出し文次のとおり。
「あまりにも有名な、あまりにも血生臭い歌詞」
革命後、フランス軍はオーストリアとの戦いに明け暮れていた1792年のこと。国境近くの町カトラスプールの市長が兵士の壮行会を開くにあたり,工兵大尉の某に士気を高める行進曲を依頼し一晩で出来上がったのが「ライン部隊のための軍歌」。これが全国に広まり、ステラスプールとは遠く離れたマルセイエーズ義勇軍がパリを目指して行軍する道すがら歌ったことから「ラ・マルセイエーズ」称されるようになった。
この歌は1世紀にもわたり偏向した革命歌として考えられてきたため、国家として定められたのは第三共和国となった1795 年 7 月14日のこと。フランス共和国の標語である「自由・平等・博愛」と共に国歌として制定された。右派勢力もナショナリズムが高まるにつれこの歌を支持するようになり、極左勢力も第2次世界大戦における反ファシズム運動の最盛期になって初めてこの歌を受け入れた。その後、さらに約一世紀を経た1992年、アルペーヴィル冬季オリンピックの開会式において、いたいけな少女が壇上で「敵兵たちは……子どもたちや妻の喉(のど)を掻ききろうとしている」、「我らの地にやつらの穢(けが)れた血を降らせよ」といった残忍な歌詞を歌う演出が物議をかもし、好戦的な歌詞は変えるべきだとの議論が巻き起こった。「ラ・マルセーエーズ」は第七節まであるが、すべてを歌えるフランス人は少ないという。
かくてかのフランス人青年の演奏拒否の理由が判明した。フランス国歌の日本語版は下記のとおり。
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