軍歌「戦友」に思う
軍歌とは軍隊の士気を鼓舞する歌(広辞苑から)。十五年戦争当時の日本には軍歌が氾濫していた。「敵は幾万ありとても」とか「天に代りて不義を撃つ」とかの軍歌をば、老いも若きも幼きも本気で歌ったものだった。私もその中の一人。老境に達した今、不思議にも古い軍歌が口を衝いて出る。「戦友」の歌「ここは御国を何百里/離れて遠き満洲の/赤い夕日に照らされて/友は野末(のずえ)の石の下」(真下飛泉作詞・三善和気作曲)などは長編(一節から一四節まで)であるが今でも全部歌うことができる。
軍歌とは「士気を鼓舞する歌」(上掲)とすれば「戦友」は軍歌のジャンルに入らないのではないか。出足からして「友は野末の石の下」である。「後(おく)れてくれなと目に涙」(第五節)、「時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや」(第八節)。曲調おだやかであり全体に哀愁が漂う。とくに哀感をそそられるのは結びの十第十三節と第十四節である。
十三 くまなく晴れた月今宵(こよい) 十四 筆の運びはつたないが
心しみじみ筆(ふで)とりて 行灯(あんど)のかげで親たちが
友の最期(さいご)をこまごまと 読まるる心(こころ)おもいやり
親御(おやご)へ送るこの手紙 思わずおとす一雫(ひとしずく)
最近この歌を私はよく歌う。そして戦場における最下級の兵隊さんの人間愛を思う。また思う、これは厭戦歌(えんせんか)ではないかと。十四節目を緩徐低吟するとき嗚咽の思いがする。またまた思う。この歌は厭戦歌を通り越して反戦歌ではないかと。戦争末期この歌はその筋(当時の陸軍上層部を指す)のお達しにより歌唱禁止された。「論より証拠」とはこのことか。いま口ずさみつつ作詞作曲のお二人に脱帽する思い。歌詞と楽譜は下記のとおり。
「戦友」 真下飛泉作詞 三善和気作曲
一 ここは御国(おくに)を何百里(なんびゃくり) 二 思えばかなし昨日(きのう)まで
離れて遠(とお)き満洲(まんしゅう)の 真先(まっさき)かけて突進し
赤い夕日(ゆうひ)に照(て)らされて 敵を散々(さんざん)懲らしたる
友は野末(のずえ)の石(いし)の下(した) 勇士はここに眠れるか
三 ああ戦(たたかい)の最中(さいちゅう)に 四 軍律(ぐんりつ)きびしい中(なか)なれど
隣(とな)りに居(お)った此(こ)の友の これが見(み)捨(す)てて置(お)かりょうか
俄(にわ)かにはたと倒(たお)れしを 「しっかりせよ」と抱(だ)き起(おこ)し
我はおもわず駆(か)け寄(よ)って 仮包帯(かりほうたい)も弾丸(たま)の中(なか)
五 折(おり)から起(おこ)る突貫(とっかん)に 六 あとに心は残れども
友はようよう顔あげて 残しちゃならぬ此(こ)の体(からだ)
「お国の為(ため)だかまわずに 「それじゃ行くよと」と別れたが
後(おく)れてくれな」と目(め)に涙(なみだ) 永(なが)の別れとなったのか
七 戦(たたかい)すんで日(ひ)が暮(く)れて 八 空(むな)しく冷(ひ)えて魂(たましい)は
さがしにもどる心では くにに帰ったポケットに
どうぞ生(い)きていてくれよ 時計(とけい)ばかりがコチコチと
ものなといえと願うたに 動いて居(い)るのも情(なさけ)なや
九 思えば去年(きょねん)船出(ふなで)して 十 それより後(のち)は一本(いっぽん)の
お国が見えずなった時 煙草(たばこ)も二人(ふたり)でわけてのみ
玄界灘(げんかいなだ)で手を握(にぎ)り ついた手紙も見せ合(お)うて
名(な)をなのったが始(はじ)めにて 身(み)の上(うえ)ばなしくりかえし
十一 肩を抱(だ)いては口(くち)ぐせに 十二 思いもよらず我(われ)一人(ひとり)
どうせ命(いのち)はないものよ 不思議(ふしぎ)に命(いのち)ながらえて
死んだら骨(こつ)を頼(たの)むぞと 赤い夕日(ゆうひ)の満洲で
言(い)いかわしたる二人仲(ふたりなか) 友の塚穴(つかあな)掘(ほ)ろうとは
十三 くまなく晴れし月(つき)今宵(こよい) 十四 筆の運(はこ)びはつたないが
心(こころ)しみじみ筆(ふで)とって 行灯(あんど)のかげで親達(おやたち)が
友の最期(さいご)をこまごまと 読まるる心(こころ)おもいやり
親御(おやご)へ送る此(こ)の手紙 思わずおとす一雫(ひとしずく)
0 件のコメント:
コメントを投稿