心開することを得つ(『大無量寿経」』)

心開することを得つ(『大無量寿経」』)

2014年1月23日木曜日

パート22

軍歌「愛馬進軍歌」に思う
かつて日支事変(十五年戦争初期)のころ沢山の軍歌が作られた。たとえば「露営の歌」(勝ってくるぞといさましく)、「出征兵士を送る歌」(わが大君に召されたる)。「麦と兵隊」(徐州徐州と人馬は進む)などなど枚挙にいとまがない。今でもスラスラと口から出るから不思議だ。さて今年は午(馬)年。そこで「愛馬進軍歌」を俎上(そじょう)に。
Ⅰ 国を出てから幾月ぞ     2 慰問袋のお守りを 
共に死ぬ気でこの馬と      掛けて戦うこの栗毛 
攻めて進んだ山や川       塵にまみれたひげ面に
取った手綱に血が通う      何で懐(なつ)くか顔寄せて
題名からして「愛馬進軍歌」。中身も人馬一体・動物愛護の精神がよく出ている。だがここで視点を変える。当時騎兵という兵科があった。騎兵のほかにも軍馬を扱う兵科があった。それは「特務兵」と呼ばれる。兵器(武器弾薬)を馬背に載せて徒歩で運搬する兵隊のことである。日清、日露戦争の時代には彼らは「輜重輸卒」と呼ばれた。当時の軍隊では「輜重輸卒が兵隊ならば/蝶々蜻蛉(とんぼ)も鳥の内/電信柱に花が咲く」と歌に歌われ軽侮された兵科である。そのころ軍用トラックの配備は極めて少なく人馬による輸送が主であった。日本内地にいる時は馬にまったく関わりのなかった男たちが軍隊に取られ「特務兵」に指定されるとたちまち人馬一体の任務に従事させられる。兵隊の替わりはいくらでもあるが軍馬の調達には多大の経費を要する。だから軍馬は貴重で兵隊よりも大切にされる。「馬に蹴られて名誉の戦死」という事例があったかも知れない。かつての日本陸軍では兵隊の値打ちは「一銭五厘」(官製はがきの定価)ととして貶(おとし)められることが日常茶飯事であったと聞く。痛ましいかぎりである。付記して筆を措く。「愛馬進軍歌」の歌詞と楽譜は下記のとおり。

久保井信夫 作詞  新城正一 作曲
愛馬進軍歌
国を出てから幾月ぞ/ともに死ぬ気でこの馬と/攻めて進んだ山や川/執(と)った手綱(たずな)に血が通う
慰問袋のお守りを/掛けて戦うこの栗毛(くりげ)/塵 (ちり)に塗(まみ)れたひげ面に/何で懐(なつ)くか 顔寄せて
伊達(だて)には取らぬこの剣(つるぎ)/真っ先駆けて突っ込めば/
なんともろいぞ敵の陣/馬よいななけ勝鬨(かちどき)だ。
昨日陥したトーチカで/今日は仮寝(かりね)の高いびき/馬よぐっすり眠れたか/明日の戦(いくさ)は手強(てごわ)いぞ
弾丸(たま)の雨降る濁流を/お前頼りに乗りきって/つとめ果たしたあの時は/泣いて秣(まぐさ)を食わしたぞ

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