心開することを得つ(『大無量寿経」』)

心開することを得つ(『大無量寿経」』)

2014年2月5日水曜日

パート24






親鸞聖人の「疑惑罪過和讃」に学ぶ
(本稿については柏原祐泉師『三帖和讃講義』からの抜粋)
御清書本によると、この和讃には題号がない。けれども和讃全23首の終りに「巳上二十三首、仏智不思議の弥陀の御たちかいをうたがをしらせんとあらわせるなり」とあり、また御草稿本の終りに「巳上疑惑罪過二十二首」とある。それゆえ古来「疑惑罪過和讃」と称している。その意味はけだし御清書本末尾の終りの文で明らかである。
「疑惑罪過和讃」は二十三首ある。その全体は下記のとおりである。初めの二十二首は正しく仏智疑惑の罪過を挙げ、終りの一首で、この疑惑を捨てて他力不思議を信ずべきことを勧めておられる。仏智疑惑の罪過を挙げたまう二十二首のうち初から第九首までは、広く疑惑往生の欠点を数えておられる。即ち第一首には辺地に留滞して報土に進み得ないことを、第二首には報仏恩の思いなきことを、第三首には仏法僧の三宝を見聞しないことを、第四首には空しく長年劫を過ごすことを、第五、六、七、八首には七宝の獄牢に閉じられることを、第九首には大悲心を得ずして衆生を教化(きょうけ)せざることを数え挙げられた。そして第十首には、善導大師が、この化土往生を貶斥(へんせき)せられたことを述べておられる。進んで第十一首より第十六首までの六首においては、重ねて胎生(たいしょう)の因果等についての欠点を指摘せられた。即ち第十一首には胎生の原因を示し、第十二、十三、十四首には胎生の果報の損失を数え、第十五、第十六の二首には、疑惑の往生が化土に往生すべき所由し、化土往生を胎生と名づけらるべき所由を述べたまうた。
更に第十七首より第二十二首は、詳しく『大無量寿経』智慧段における弥勒菩薩道と釈尊との問答を抄出して、今まで述べて来たところに誤りなきことを証拠立てられたのである。これ、宗祖聖人がいかに仏智疑惑の恐るべきかを知らしめんための老婆親切である。

2014年1月30日木曜日

パート23

センター試験に紙上挑戦
今年も例年どおり『大学入試センター試験』の「国語」「現代社会」「日本史」について新聞に掲載の問題を拡大コピーして紙上挑戦した。概要は次のとおり。まず「国語」。「国語」は第1問「現代文甲」第2問「現代文乙」第3問「古文」第4問「漢文」。それぞれの試験問題の概要は次のとおり。
第1問は斉藤希史,『漢文脈と近代日本』の原文を挙げ、設問は問1~問6まで。第2問は岡本かの子の小説「快走」の全文を挙げ、設問は問1~問6。第3問は、『源氏物語』「夕霧の巻」の原文の一節を挙げ、設問は問1~問6。第4問は、陸樹声『陸文定公集』の原文の一定部分を挙げ、設問は問1~問7まで。
毎度のことだが量が多い。私の場合は時間は無制限だから気楽なものだ。とは言っても全問「五択」制だから選定に苦労する。ことに今回の第3問「源氏物語」は平素ご縁のないわが身にとっては初めから絶望的。結果は五十点満点の十五点と低かった。他の課目が比較的良好のため総合点は二百点満点のところ104点はまずまず。この分だと来年も挑戦することができそうである。ちなみに「国語」の質問別得点票は下記のとおり。



2014年1月23日木曜日

パート22

軍歌「愛馬進軍歌」に思う
かつて日支事変(十五年戦争初期)のころ沢山の軍歌が作られた。たとえば「露営の歌」(勝ってくるぞといさましく)、「出征兵士を送る歌」(わが大君に召されたる)。「麦と兵隊」(徐州徐州と人馬は進む)などなど枚挙にいとまがない。今でもスラスラと口から出るから不思議だ。さて今年は午(馬)年。そこで「愛馬進軍歌」を俎上(そじょう)に。
Ⅰ 国を出てから幾月ぞ     2 慰問袋のお守りを 
共に死ぬ気でこの馬と      掛けて戦うこの栗毛 
攻めて進んだ山や川       塵にまみれたひげ面に
取った手綱に血が通う      何で懐(なつ)くか顔寄せて
題名からして「愛馬進軍歌」。中身も人馬一体・動物愛護の精神がよく出ている。だがここで視点を変える。当時騎兵という兵科があった。騎兵のほかにも軍馬を扱う兵科があった。それは「特務兵」と呼ばれる。兵器(武器弾薬)を馬背に載せて徒歩で運搬する兵隊のことである。日清、日露戦争の時代には彼らは「輜重輸卒」と呼ばれた。当時の軍隊では「輜重輸卒が兵隊ならば/蝶々蜻蛉(とんぼ)も鳥の内/電信柱に花が咲く」と歌に歌われ軽侮された兵科である。そのころ軍用トラックの配備は極めて少なく人馬による輸送が主であった。日本内地にいる時は馬にまったく関わりのなかった男たちが軍隊に取られ「特務兵」に指定されるとたちまち人馬一体の任務に従事させられる。兵隊の替わりはいくらでもあるが軍馬の調達には多大の経費を要する。だから軍馬は貴重で兵隊よりも大切にされる。「馬に蹴られて名誉の戦死」という事例があったかも知れない。かつての日本陸軍では兵隊の値打ちは「一銭五厘」(官製はがきの定価)ととして貶(おとし)められることが日常茶飯事であったと聞く。痛ましいかぎりである。付記して筆を措く。「愛馬進軍歌」の歌詞と楽譜は下記のとおり。

久保井信夫 作詞  新城正一 作曲
愛馬進軍歌
国を出てから幾月ぞ/ともに死ぬ気でこの馬と/攻めて進んだ山や川/執(と)った手綱(たずな)に血が通う
慰問袋のお守りを/掛けて戦うこの栗毛(くりげ)/塵 (ちり)に塗(まみ)れたひげ面に/何で懐(なつ)くか 顔寄せて
伊達(だて)には取らぬこの剣(つるぎ)/真っ先駆けて突っ込めば/
なんともろいぞ敵の陣/馬よいななけ勝鬨(かちどき)だ。
昨日陥したトーチカで/今日は仮寝(かりね)の高いびき/馬よぐっすり眠れたか/明日の戦(いくさ)は手強(てごわ)いぞ
弾丸(たま)の雨降る濁流を/お前頼りに乗りきって/つとめ果たしたあの時は/泣いて秣(まぐさ)を食わしたぞ

2014年1月16日木曜日

パート21

軍歌「戦友」に思う

軍歌とは軍隊の士気を鼓舞する歌(広辞苑から)。十五年戦争当時の日本には軍歌が氾濫していた。「敵は幾万ありとても」とか「天に代りて不義を撃つ」とかの軍歌をば、老いも若きも幼きも本気で歌ったものだった。私もその中の一人。老境に達した今、不思議にも古い軍歌が口を衝いて出る。「戦友」の歌「ここは御国を何百里/離れて遠き満洲の/赤い夕日に照らされて/友は野末(のずえ)の石の下」(真下飛泉作詞・三善和気作曲)などは長編(一節から一四節まで)であるが今でも全部歌うことができる。
軍歌とは「士気を鼓舞する歌」(上掲)とすれば「戦友」は軍歌のジャンルに入らないのではないか。出足からして「友は野末の石の下」である。「後(おく)れてくれなと目に涙」(第五節)、「時計ばかりがコチコチと 動いているのも情けなや」(第八節)。曲調おだやかであり全体に哀愁が漂う。とくに哀感をそそられるのは結びの十第十三節と第十四節である。
十三 くまなく晴れた月今宵(こよい)     十四 筆の運びはつたないが
心しみじみ筆(ふで)とりて          行灯(あんど)のかげで親たちが
友の最期(さいご)をこまごまと        読まるる心(こころ)おもいやり 
親御(おやご)へ送るこの手紙         思わずおとす一雫(ひとしずく)
最近この歌を私はよく歌う。そして戦場における最下級の兵隊さんの人間愛を思う。また思う、これは厭戦歌(えんせんか)ではないかと。十四節目を緩徐低吟するとき嗚咽の思いがする。またまた思う。この歌は厭戦歌を通り越して反戦歌ではないかと。戦争末期この歌はその筋(当時の陸軍上層部を指す)のお達しにより歌唱禁止された。「論より証拠」とはこのことか。いま口ずさみつつ作詞作曲のお二人に脱帽する思い。歌詞と楽譜は下記のとおり。


「戦友」  真下飛泉作詞 三善和気作曲
一 ここは御国(おくに)を何百里(なんびゃくり) 二 思えばかなし昨日(きのう)まで
離れて遠(とお)き満洲(まんしゅう)の      真先(まっさき)かけて突進し       
赤い夕日(ゆうひ)に照(て)らされて       敵を散々(さんざん)懲らしたる
友は野末(のずえ)の石(いし)の下(した)    勇士はここに眠れるか

三 ああ戦(たたかい)の最中(さいちゅう)に   四 軍律(ぐんりつ)きびしい中(なか)なれど
隣(とな)りに居(お)った此(こ)の友の     これが見(み)捨(す)てて置(お)かりょうか
俄(にわ)かにはたと倒(たお)れしを       「しっかりせよ」と抱(だ)き起(おこ)し
我はおもわず駆(か)け寄(よ)って         仮包帯(かりほうたい)も弾丸(たま)の中(なか)

五 折(おり)から起(おこ)る突貫(とっかん)に 六 あとに心は残れども
友はようよう顔あげて               残しちゃならぬ此(こ)の体(からだ)
「お国の為(ため)だかまわずに          「それじゃ行くよと」と別れたが
後(おく)れてくれな」と目(め)に涙(なみだ)  永(なが)の別れとなったのか

七 戦(たたかい)すんで日(ひ)が暮(く)れて  八 空(むな)しく冷(ひ)えて魂(たましい)は 
さがしにもどる心では               くにに帰ったポケットに
どうぞ生(い)きていてくれよ           時計(とけい)ばかりがコチコチと
ものなといえと願うたに              動いて居(い)るのも情(なさけ)なや

九 思えば去年(きょねん)船出(ふなで)して   十 それより後(のち)は一本(いっぽん)の
お国が見えずなった時               煙草(たばこ)も二人(ふたり)でわけてのみ
玄界灘(げんかいなだ)で手を握(にぎ)り     ついた手紙も見せ合(お)うて
名(な)をなのったが始(はじ)めにて       身(み)の上(うえ)ばなしくりかえし

十一 肩を抱(だ)いては口(くち)ぐせに    十二 思いもよらず我(われ)一人(ひとり)
どうせ命(いのち)はないものよ         不思議(ふしぎ)に命(いのち)ながらえて
死んだら骨(こつ)を頼(たの)むぞと      赤い夕日(ゆうひ)の満洲で
言(い)いかわしたる二人仲(ふたりなか)    友の塚穴(つかあな)掘(ほ)ろうとは

十三 くまなく晴れし月(つき)今宵(こよい)  十四  筆の運(はこ)びはつたないが
心(こころ)しみじみ筆(ふで)とって      行灯(あんど)のかげで親達(おやたち)が
友の最期(さいご)をこまごまと         読まるる心(こころ)おもいやり
親御(おやご)へ送る此(こ)の手紙       思わずおとす一雫(ひとしずく)

2014年1月9日木曜日

パート20

「真宗宗歌」について
新年2回目の今回は「真宗宗歌」を取り上げることに。「真宗宗歌」とは真宗の流れを汲む人々の拠り所となる歌です。制定されてから満九十年。私こと九十歳、奇しくも同年です。     「真宗宗歌」について概説すれば次のとおり。

1 真宗宗歌は1923(大正12)年「真宗各派連合会」(現在の真宗教団連合の前身)による公募作品の中から選定された。作詞は当時29歳の土呂基さん。土呂さんは真宗大谷派の寺の二男として生れた。土呂さんは大阪の海を見てこれを書いたという。歌人佐々木信綱氏の添削があったとされるが29歳の若さでこれほどの秀歌を創作した土呂基さんの真宗の教えにたいする造詣の深さには敬服のほかはない。

2 当時の大谷派宗報に掲載された賛辞は次のとおり。
1節目は、聞法信仰に入りいよいよ聞法を深めて信心獲得への意欲が歌い上げられている。2節目は、知遇しがたい仏法に遇って救われた喜びを表し、称名念仏の在家生活の力強い日暮しが歌い上げられている。3節目は、四海の内みな兄弟という御同朋御同行の世界に目覚めた喜びに立って、共に本願の心に生きる尊さを他の人に伝え広め、願生浄土の道を共にすることを高らかに歌い上げられている。

3 真宗宗歌は、ひたすらに聞法の歩みを続ける中で阿弥陀如来の智慧と慈悲の光に触れ、人生を生き抜く拠り所を見つけ、阿弥陀の大きな慈悲の中に生かされている喜びと幸せを歌い上げた内容である。90年前にできた歌ではあるが、その輝きは今も力強い光を放っている、と。
後書 当・加州願生舎では朝夕の勤行時において「真宗宗歌」3節全部をエレクトーン伴奏により唱和し、意義の了解に努めている。なお歌詞と楽譜は下記のとおり。


2014年1月2日木曜日

パート19

                   大信心は長生不死の神方
 『教行信証』信巻(しんのまき)の冒頭に[謹んで往相の回向を案ずるに大信あり]とあり、続いて次のように説かれている。
    大信心はすなわちこれ長生不死(ちょうせいふし)の神方(しんぽう)、欣浄厭穢(ごんじょうえんえ)の妙術(みょうじゅつ)、選択回向(せんじゃくえこう)の直心(じきしん)、利他深厚(りたじんこう)の信楽(しんぎょう)、金剛不壊(こんごうふえ)の真心(しんしん)、易往無人(いおうむにん)の浄心(じょうしん)、心光摂護(しんこうしょうご)の一心(いっしん、希有最勝(けうさいしょう)の大信(だいしん)、世間難信(せけんなんしん)の捷径(せっけい)、証大涅槃(しょうだいねはん)の真因(しんいん)、極速円満(ごくそくえんまん)の白道(びゃくどう)、真如一実(しんにょいちじつ)の信海なり。
 大信心に関する「嘆徳十二句」と称される一節である。これを図解すれば次のとおり。






第一項が「(大信心は)長生不死の神方なり」であることに注目したい。「長生不死」は万人の渇望である。ここでふと豊太閤の辞世句を思い出す。「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」。人は所詮生きてきたようにして死んでいかねばならない存在か。終わりに「嘆徳12句」の和英対照を次ページにご紹介する。なお英文は鈴木大拙師の『英訳教行信証』による。

「大信心嘆徳12句」の和英対照
長生(ちょうせい)不死の神方(しんぽう)、
It is the wonderful means of achieving longevity and immortality;
欣浄厭穢(ごんじょうえんえ)の妙術、
it is the miraculous ( art ) of longing for the pure and loathing the defiled;
選択回向(せんじゃくえこう)の直心(じきしん)
it is the straightforward mind which is made to move toword Nyorai by means of his selected prayer.
利他深厚(りたじんこう)の信楽(しんぎょう)、
it is faith in that which issues from the [Amidas Prayer which is] deeply an extensively concerned with benefiting all beings;
金剛不壊(こんごうふえ)の真心、
it is true mind as indestsructive as vajira;
易往無人(いおうむにん)の浄信(じょうしん)、 
it is the absolute faith which though easy to enter into, is attained by a very few;
心光摂護(しんこうしょうご)の一心、
it is the one mind protected by [Nyori’s] spiritual Light;

稀有最勝(けう・さいしょう)の大信、
it is the greatest,most wonderful, and most excellent faith:
世間難信(せけんなんしん)の捷径(せっけい),
It is the quickest path [to the Pure Land] which is beyond ordinary people’s belief;
証大涅槃(しょうだいねはん)の真因、
it is the true cause leading to the realization of great Nilvana;
極速円融(ごくそくえんゆう)の白道(びゃくどう)、
it is the white path of perfect passage to be assured at the shortest possible time;
真如一実(しんにょいちじつ)の信海なり。
and it is the ocean of faith of Suchness and of One Reality.  



参考2「大信心は長生不死の神方」補足。(拙著『三帖和讃に学ぶ』から)
「大経和讃」第9首
       真実信心うるひとは
      すなわち定聚(じょうじゅ)のかずにいる
      不退(ふたい)のくらいにいりぬれば
      かならず滅渡(めっど)にいたらしむ
  ◇第十一願の意。他力真実の信心をうる人は即時に正定聚不退
   の位に入る。不退の位に入ってしまえば必然的に涅槃にいたらし
めるのだ。

 追記
  第十一願について 親鸞聖人の著書「一念多念文意」から。
   この願成就(がんじょうじゅ)を釈迦如来(しゃかにょらい)ときたまわく、「其有衆生 生彼国者 皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚聚」(大経)と。のたまえり。これらの文のこころは、「たといわれ仏(ぶつ)をえたらんに、くにのうちの人天(にんでん)、定聚(じょうじゅ)にも住し、かならず滅度(めつど)にいたらずは仏(ぶつ)にならじ」とちかいたまえるこころなり。またのたまわく、「もしわれ仏(ぶつ)にならんに、くにのうちの有情(うじょう)、もし決定(けつじょう)して等正覚(とうしょうがく)をなりて、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)せずは、仏にならじ」とつかいたまえるなり。かくのごとく法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)ちかいたまえるを、釈迦(しゃか)如来、五濁(じょく)のわれらがためにときたまえる文(もん)のこころは、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定(しょうじょう)の聚(じゅ)に住す。ゆえはいかんとなれば、かの仏国(ぶっこく)のうちにはもろもろの邪聚(じゃじゅ)および不定聚(ふじょうじゅ)は、
  なければなり」とのたまえり。この二尊(そん)の御のりをみたてまつるに、すなわち往生(おう毘じょう)すとのたまえるは、正定聚(しょうじょうじゅ)のくらいにさだまるを不退転(ふたいてん)に住すとはのたまえるなり。このくらいにさだまりぬれば、かならず無上代涅槃(むじょうだいねはん)にいたるべき身となるがゆえに、等正覚(とうしょうがく)をなるともとき、阿毘抜致(あびばっち)にいたるとも、阿惟越致(あゆいおっち)にいたるとも、ときたまみう。即時入必定(そくじにゅうひつじょうむ)とももうすなり。この真実信楽(しんじつしんぎょう)は、他力横超(たりきおうちょう)の金剛心(こんごうしん)なり。(真宗大谷派『真宗聖典』535頁)。
  




2013年12月26日木曜日

パート18

国歌「君が代」と私
 私は1924(大正13)年生れ。アジア太平洋戦争(大東亜戦争)敗戦時は21歳。それまでの私の精神生活を支えた第一は「教育勅語」であり、第二は国歌「君が代」であった。「教育勅語」については次のとおり。
 注 教育勅語 明治天皇の名で国民道徳の根源、国民教育の基本理念を明示した勅語。1890年(明治23)10月30日発布。御真影とともに天皇制教育精神の主柱となり、国の祝祭日に朗読が義務づけられた。一九四八年、国会の排除・失効確認を決議。正式文書では「教育ニ関スル勅語」。(広辞苑から)。
追記 戦後の昭和22年に「教育基本法」が制定され、次いで23年に国会でこれ(教育勅語)が排除・失効確認の決議がなされた。かくて日本国民は教育勅語の繋縛(けばく)から開放さたることとなった。
かつての私の精神生活を支えた第二のものは国歌「君が代」。そしてこれは敗戦の翌年1月1日の天皇の人間宣言によって天皇の権威は消滅した。この時期を境いとして、私はこの歌を本気で歌ったことはかつて一度もない。だが今回、改めて「君が代」について考察を試みることにした。
「君が代」とは(広辞苑から)
事実上、日本の国歌として歌われる楽曲。歌詞は「君が代は千代にさざれ石の巌となりて苔のむすまで」で江戸時代の隆達節の巻頭第一にあるものと同じく、さかのぼれ ば古今集に初句を「我が君は」とした和歌がある。作曲は1880年(明治13年)宮内省。93年、小学校における祝祭日の儀式用唱歌として公布され、明治憲法下で天皇治世を祝う国歌として歌われていた。

(「君が代」)弓狩匡純「国のうた」から
 君が代を最初に選んだのは大山巌 *舶来の音楽の「オ」の字も知らなかった日本が「君が代」を作るきっかけとなったのは1869年(明治2年)9月4日に英国王子エジンバラ公が来日し天皇陛下に謁見された折であった。それまでは「国歌」という概念さえ持ち合わせていなかった時代である。横浜に駐屯していた英国の軍楽長のジョン・ウイリアム・フェルトンが、軍楽隊(鼓笛隊)のノウハウを学んでいた薩摩藩の青年たちに「日本も国歌を作るべきだ」と進言。当時、砲兵隊長を務めていた大山巌(後に元帥)が早速「古今和歌集」に「詠み人知らず」として、長寿を祝う「賀歌」の筆頭に収められていたこの歌を選び(厳密に言えば彼らが愛唱していた琵琶歌「蓬莱山)に引用されていて「君が代」)、フェイントンに作曲を依頼した。1872年(明治3年)9月8日、閲兵式で薩摩藩の軍楽隊によって「君が代」は始めて演奏される。国歌はできてが、付け焼刃で作られたため、たいそう評判が悪かった。そこで海軍の軍楽長であった中村裕輔の提案により、海軍省は宮内省雅楽課に改めて作曲を依頼する。これを受けて宮内省の怜人(楽人)の奥好義らが作った旋律を一等怜人の林廣守が補訂。さらに海軍軍楽隊の教師として赴任していたドイツ人のフランツ・エッケルトが吹奏楽譜として編曲し直した。この曲が我々の耳にする「君が代」であり、1880年(明治18年)に改訂される。正式に国歌として制定されたのは1999年(平成11年)
の「国旗及び国歌に関する法律」による。ただし「君が代」の成り立ちには諸説があるため、政府としては正式な見解は出していない。(以上「国のうた」全文)。
 終りに中沢啓二作の漫画「はだしのゲン」から、「君が代」に対するゲンの糾弾の叫び声を紹介する。すなわち次のとおり。そしてそれは筆者の気持ちを代弁するものでもある。
 1「そうじゃ 君が代なんかやめりゃいいんじゃ」「あのしんきくさくて、ねぼけた歌を聞くと、ねむとうなるわい」。2「日本の音楽家はなにをしとるんじゃ、楽しくて活力がわいて、本当に心から歌いたい国歌がつくれんのか」。3「日本は新憲法が出来たんじゃ、それにふさわしい国歌をつくりゃええんじゃ」。(別紙添付下記)              以上