大信心は長生不死の神方
『教行信証』信巻(しんのまき)の冒頭に[謹んで往相の回向を案ずるに大信あり]とあり、続いて次のように説かれている。
大信心はすなわちこれ長生不死(ちょうせいふし)の神方(しんぽう)、欣浄厭穢(ごんじょうえんえ)の妙術(みょうじゅつ)、選択回向(せんじゃくえこう)の直心(じきしん)、利他深厚(りたじんこう)の信楽(しんぎょう)、金剛不壊(こんごうふえ)の真心(しんしん)、易往無人(いおうむにん)の浄心(じょうしん)、心光摂護(しんこうしょうご)の一心(いっしん、希有最勝(けうさいしょう)の大信(だいしん)、世間難信(せけんなんしん)の捷径(せっけい)、証大涅槃(しょうだいねはん)の真因(しんいん)、極速円満(ごくそくえんまん)の白道(びゃくどう)、真如一実(しんにょいちじつ)の信海なり。
大信心に関する「嘆徳十二句」と称される一節である。これを図解すれば次のとおり。
第一項が「(大信心は)長生不死の神方なり」であることに注目したい。「長生不死」は万人の渇望である。ここでふと豊太閤の辞世句を思い出す。「露と落ち 露と消えにし我が身かな 浪速のことは夢のまた夢」。人は所詮生きてきたようにして死んでいかねばならない存在か。終わりに「嘆徳12句」の和英対照を次ページにご紹介する。なお英文は鈴木大拙師の『英訳教行信証』による。
「大信心嘆徳12句」の和英対照
長生(ちょうせい)不死の神方(しんぽう)、
It is the wonderful means of achieving longevity and immortality;
欣浄厭穢(ごんじょうえんえ)の妙術、
it is the miraculous ( art ) of longing for the pure and loathing the defiled;
選択回向(せんじゃくえこう)の直心(じきしん)
it is the straightforward mind which is made to move toword Nyorai by means of his selected prayer.
利他深厚(りたじんこう)の信楽(しんぎょう)、
it is faith in that which issues from the [Amidas Prayer which is] deeply an extensively concerned with benefiting all beings;
金剛不壊(こんごうふえ)の真心、
it is true mind as indestsructive as vajira;
易往無人(いおうむにん)の浄信(じょうしん)、
it is the absolute faith which though easy to enter into, is attained by a very few;
心光摂護(しんこうしょうご)の一心、
it is the one mind protected by [Nyori’s] spiritual Light;
稀有最勝(けう・さいしょう)の大信、
it is the greatest,most wonderful, and most excellent faith:
世間難信(せけんなんしん)の捷径(せっけい),
It is the quickest path [to the Pure Land] which is beyond ordinary people’s belief;
証大涅槃(しょうだいねはん)の真因、
it is the true cause leading to the realization of great Nilvana;
極速円融(ごくそくえんゆう)の白道(びゃくどう)、
it is the white path of perfect passage to be assured at the shortest possible time;
真如一実(しんにょいちじつ)の信海なり。
and it is the ocean of faith of Suchness and of One Reality.
参考2「大信心は長生不死の神方」補足。(拙著『三帖和讃に学ぶ』から)
「大経和讃」第9首
真実信心うるひとは
すなわち定聚(じょうじゅ)のかずにいる
不退(ふたい)のくらいにいりぬれば
かならず滅渡(めっど)にいたらしむ
◇第十一願の意。他力真実の信心をうる人は即時に正定聚不退
の位に入る。不退の位に入ってしまえば必然的に涅槃にいたらし
めるのだ。
追記
第十一願について 親鸞聖人の著書「一念多念文意」から。
この願成就(がんじょうじゅ)を釈迦如来(しゃかにょらい)ときたまわく、「其有衆生 生彼国者 皆悉住於 正定之聚 所以者何 彼仏国中 無諸邪聚 及不定聚聚」(大経)と。のたまえり。これらの文のこころは、「たといわれ仏(ぶつ)をえたらんに、くにのうちの人天(にんでん)、定聚(じょうじゅ)にも住し、かならず滅度(めつど)にいたらずは仏(ぶつ)にならじ」とちかいたまえるこころなり。またのたまわく、「もしわれ仏(ぶつ)にならんに、くにのうちの有情(うじょう)、もし決定(けつじょう)して等正覚(とうしょうがく)をなりて、大涅槃(だいねはん)を証(しょう)せずは、仏にならじ」とつかいたまえるなり。かくのごとく法蔵菩薩(ほうぞうぼさつ)ちかいたまえるを、釈迦(しゃか)如来、五濁(じょく)のわれらがためにときたまえる文(もん)のこころは、「それ衆生あって、かのくににうまれんとするものは、みなことごとく正定(しょうじょう)の聚(じゅ)に住す。ゆえはいかんとなれば、かの仏国(ぶっこく)のうちにはもろもろの邪聚(じゃじゅ)および不定聚(ふじょうじゅ)は、
なければなり」とのたまえり。この二尊(そん)の御のりをみたてまつるに、すなわち往生(おう毘じょう)すとのたまえるは、正定聚(しょうじょうじゅ)のくらいにさだまるを不退転(ふたいてん)に住すとはのたまえるなり。このくらいにさだまりぬれば、かならず無上代涅槃(むじょうだいねはん)にいたるべき身となるがゆえに、等正覚(とうしょうがく)をなるともとき、阿毘抜致(あびばっち)にいたるとも、阿惟越致(あゆいおっち)にいたるとも、ときたまみう。即時入必定(そくじにゅうひつじょうむ)とももうすなり。この真実信楽(しんじつしんぎょう)は、他力横超(たりきおうちょう)の金剛心(こんごうしん)なり。(真宗大谷派『真宗聖典』535頁)。