心開することを得つ(『大無量寿経」』)

心開することを得つ(『大無量寿経」』)

2013年12月19日木曜日

パート17

フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の思い出
平成二十年夏のある日、加賀市山田町にある光闡坊(真宗大谷派)で「国際交流」の集いがあり私も出かけた。開会前に行ったつた私は光闡坊大広間に備え付けのピアノで独り演奏を楽しむフランス人青年に出会った。かれの名はルロア。私はたまたま和田稠作詞、、小松康助作曲の「三帰の歌」を携行していたので、これ幸いとルロア氏に演奏を願った。かれは快諾して弾いてくれて演奏後「いい曲ですね」と言った。次にラベル作曲「ボレロ」を所望したところこれは暗譜で演奏してくれた。私は続いてフランス国歌「ラ・マルセイエーズ」を所望した。ところがかれは言下に峻拒。理由は「歌詞が残忍だから嫌い」と。これは意外。私は何も知らなかった。翌日、私は最寄りの図書館で弓狩匡純著「国の歌」を見つけ「フランス国歌」の項を読んだ。見出し文次のとおり。
   
「あまりにも有名な、あまりにも血生臭い歌詞」  
 革命後、フランス軍はオーストリアとの戦いに明け暮れていた1792年のこと。国境近くの町カトラスプールの市長が兵士の壮行会を開くにあたり,工兵大尉の某に士気を高める行進曲を依頼し一晩で出来上がったのが「ライン部隊のための軍歌」。これが全国に広まり、ステラスプールとは遠く離れたマルセイエーズ義勇軍がパリを目指して行軍する道すがら歌ったことから「ラ・マルセイエーズ」称されるようになった。

 この歌は1世紀にもわたり偏向した革命歌として考えられてきたため、国家として定められたのは第三共和国となった1795 年 7 月14日のこと。フランス共和国の標語である「自由・平等・博愛」と共に国歌として制定された。右派勢力もナショナリズムが高まるにつれこの歌を支持するようになり、極左勢力も第2次世界大戦における反ファシズム運動の最盛期になって初めてこの歌を受け入れた。その後、さらに約一世紀を経た1992年、アルペーヴィル冬季オリンピックの開会式において、いたいけな少女が壇上で「敵兵たちは……子どもたちや妻の喉(のど)を掻ききろうとしている」、「我らの地にやつらの穢(けが)れた血を降らせよ」といった残忍な歌詞を歌う演出が物議をかもし、好戦的な歌詞は変えるべきだとの議論が巻き起こった。「ラ・マルセーエーズ」は第七節まであるが、すべてを歌えるフランス人は少ないという。

かくてかのフランス人青年の演奏拒否の理由が判明した。フランス国歌の日本語版は下記のとおり。

2013年12月12日木曜日

パート16

十五年戦争前期の戦時中の歌「満洲想えば」
 年寄りの常として無意識のうちに昔の歌を口ずさんだりする。「満洲想えば」もその一つ。満洲事変(下記)に夫を兵隊に取られ満洲の戦地へ送った若妻の歌。歌詞は次のとおり。
そこはかとなく反戦ムードが漂うのは満洲事変(事変という名の戦争)が長引くので戦争の前途に不安を覚えていた当時の庶民の心情を投影するかのようである。


娯楽に乏しい時代のこととて流行歌が幅をきかせた。老いも若きも幼きも流行歌に飛びついた。小学生だった私は無心に歌っていた。古い記憶が突然息を吹き返し歌詞とメロディが口をついて出る。余り愉快ではないが仕方がない。苦が笑いしながら歌っている。終りに「満洲事変」について紹介したい。(以下「広辞苑」から)
 満洲事変 一九三一年九月一一日、奉天(今の瀋陽)北方の柳条湖の鉄道爆破事件を契機とする日本の中国東北侵略戦争。十五年戦争の第一段階。翌三二年には満州国を樹立。華北分断工作を経て、日中戦争へと発展。→柳条湖事件。柳条湖事件 柳条湖は中国遼寧省瀋陽(旧称奉天)北方の地名。柳条湖事件とは満洲事変の発端となった事件。一九三一年九月十八日夜、関東軍は参謀石原完爾中佐らの謀略計画により柳条湖で満鉄線路を爆破し、中国軍の仕業と偽り攻撃を開始。なお事件の地名を柳条溝とするのは誤り.楽譜は下記のとおり。





こぼれ話 昭和初期のプロ女性流行歌手には芸者経験の人が多かった。たとえば小唄勝太郎、市丸、赤坂小梅、美ち奴などなど。今般の音丸さんは芸者経験のない芸者風歌手の一人であった。「船頭可愛いや」「下田夜曲」「祇園小唄」が有名。

2013年12月5日木曜日

パート15

第2次大戦(大東亜戦争)の開戦記念日に思う
遠いその昔、a戦前派・b戦中派・c戦後派の呼称があり、少し遅れてd戦無派なる呼称も加わった。第2次大戦以前に成人した世代を「A」、戦争の最中に青年時代を過した世代を「B」、戦後に育った世代を「C」、次いで新憲法のもと平和希求時代以降に生れ育った世代をDと仮定しよう。今日「A」はほとんどいなくなり「B」「C」も少数派になった。今はD世代が過半数(70㌫以上)を占める。私も明くれば90歳。「B」世代の残党である。
さて連年使用する石川県民手帳の「こよみ」欄の8月15日に「終戦記念日」の語がある。これに対して12月8日には「針供養」あって「開戦記念日」がない。失礼ながら不可解である。なぜなら大東亜戦争勃発の事実はこれを銘記する必要があると思われるから。
終りに一言。「過去に目を閉ざす者は結局のところ現在にも盲目である」(岩波・永井清彦編訳「ヴアイツゼッカー演説集Ⅰ『荒れ野の四十年』」より)。

太平洋戦争(この項「広辞苑による)
第2次世界大戦のうち、主として東南アジア太平洋方面における日本とアメリカ・イギリス・オランダ・中国等の連合国しの戦争。十五年戦争の第三段階で、中国戦線をも含む。日中戦争の長期化と日本の南方進出が連合国との摩擦を深め、種々外交交渉が続けられたが、一九四一年一二月八日、日本のハワイ真珠湾攻撃によって開戦。戦争初期、日本軍は優勢であったが、四二年後半から連合軍が反攻に転じ、ミッドウェイ・ガダルカナル・サイパン・琉球島・沖縄本島等において日本軍は致命的打撃を受け、本土空襲、原子爆弾投下、ソ連参戦に及び、四五年八月一四日連合国のポツダム宣言を受諾、九月二日無条件降伏文書に調印。戦争中日本では大東亜戦争と公称。中国や東南アジアなどアジア諸国を戦域に含む戦争であったから、アジア太平洋戦争とも称。


「大東亜戦争」開戦の詔勅の読み下し文
天佑を保有し、万世一系の皇祚を践める大日本帝国天皇は、昭に忠誠勇武なる汝、有衆に示す。朕、茲に米国及び英国に対して戦を宣す。朕が陸海将兵は全力を奮って交戦に従事し、朕が百僚有司は精励職務を奉行し、朕が衆庶は各々其の本分を尽し、億兆一心にして国家の総力を挙げて、征戦の目的を達成するに遺算なからしめんことを期せよ。抑々、東亜の安定を確保し、以って世界の平和に寄与するは、丕顕なる皇祖考、丕承なる皇考の作述せる遠猷にして、朕が挙々措かざる所なり。而して列国との交誼を篤くし、万邦共栄の楽を偕にするは、之亦帝国が、常に国交の要義と為す所なり。今や、不幸にして米英両国と釁端を開くに至る。洵に已むを得ざるものあり。豈、朕が志ならんや。中華民国政府、帝国の真意を解せず、濫りに事を構えて東亜の平和を攪乱し、遂にに帝国をして干戈を執るに至らしめ、茲に四年有余を経たり。幸いに、国民政府、更新するあり。帝国は之と善隣の誼を結び、相提携するに至れるも、重慶に残敏する政権は、米英の庇蔭を恃みて、兄弟尚未だ牆に相鬩ぐを俊めず。米英両国は、残存政権を支援して、東亜の禍乱を助長し、平和の美名に匿れて、東洋制覇の非望を逞くせんとす。剰え与国を誘い、帝国の周辺に於て、武備を増強して我に挑戦し、更に帝国の平和的通商に有らゆる妨害を与へ、遂に経済断交を敢えてし、帝国の生存に重大なる脅威を加う。朕は、政府をして事態を平和の裡に回復せしめんとし、隠忍久しきに弥りたるも、彼は毫も交譲の精神なく、徒に時局の解決を遷延せしめて、此の間、却って益々経済上、軍事上の脅威を増大し、以って我を屈従せしめんとす。斯の如くにして推移せんか。東亜安定に関する帝国積年の努力は悉く水泡に帰し、帝国の存立亦、正に危殆に瀕せり。事既に此に至る。帝国は、今や自存自衛の為、蹶然起って、一切の障礙を破砕するの外なきなり。皇祖皇宗の神霊、上に在り。朕は、汝、有衆の忠誠勇武に信倚し、祖宗の遺業を恢弘し、速に禍根を芟除して、東亜永遠の平和を確立し、以って帝国の光栄を保全せんことを期す。御名御璽 昭和十六年十二月八日          (拙了解要約)―切歯扼腕・意気衝天

同上終戦の詔勅の読み下し文
 朕深く世界の体勢と帝国の現状とに鑑み、非常の措置を以て時局を収拾せむと欲し、茲に忠良なる爾臣民に告ぐ。朕は帝国政府をして米英支蘇四国に対し、其の共同宣言を受諾する旨、通告せしめたり。抑々帝国臣民の康寧を図り万邦共栄の楽を偕にするは皇祖皇宗の遺範にして朕の挙々措かざる所、曩に
米英二国に宣戦せる所以も亦実に帝国の自存と東亜の安定とを庶幾するに出て、他国の主権を排し領土を侵すが如きは固より朕が志にあらず。然るに交戦己に四歳を閲し朕が陸海将兵の勇戦、朕が百僚有司の精励、朕が一億衆庶の奉公、各々最善を尽せるに拘らず、戦局必ずしも好転せず。世界の大勢亦我に利あらず、加之敵は新に残虐なる爆弾を使用して頻りに無辜を殺傷し惨害の及ぶ所、真に測るべからざるに至る。而も尚交戦を継続せんか、終に我が民族の滅亡を招来するのみならず、延べて人類の文明をも破却すべし。 斯のごとくんば朕何を以てか億兆の赤子を保し皇祖皇宗の神霊に謝せんや。是れ朕が帝国政府をして共同宣言に応せしむるに至れる所以なり。朕は帝国と共に終始東亜の解放に協力せる諸盟邦に対し遺憾の意を表せざるを得ず。帝国臣民にして戦陣に死し職域に殉じ非命に斃れたる者及び其の遺族に想いを致せば五内為に裂く。且戦傷を負い災禍を蒙り家業を失いたる者の厚生に至りては朕の深く軫念する所なり。惟うに今後帝国の受くべき苦難は固より尋常にあらず 爾臣民の衷情も朕善く之を知る。然れども朕は時運の趨く所、耐え難きを耐え忍び難きを忍び以て万世の為に太平を開かんと欲す。朕は茲に国体を護持し得て忠良なる爾臣民の赤誠に信倚し常に爾臣民と共に在り。若し夫れ情に激する所濫りに事端を滋くし、或は同胞排擠互に時局を乱り、為に大道を誤り信義を世界に失うが如きは朕最も之を戒む。宜しく挙国一家子孫相伝え確く神州不滅を信じ任重くして道遠きを念い総力を将来の建設に傾け道義を篤くし志操を鞏くし誓って国体の精華を発揚し世界の進運に後れざらんことを期すべし。爾臣民其れ克く朕が意を体せよ。御名御璽 昭和二十年八月十四日
              (拙了解要約)―四面楚歌・満身創痍――






2013年11月28日木曜日

パート14

「ゴンドラの唄」に思う
大正から昭和にかけて一世を風靡(ふうび)した流行歌に「ゴンドラの唄」がある。耽美(たんび)派歌人・吉井勇による叙情歌である。「命短し恋せよ乙女/赤き唇あせぬ間に/熱き血潮の冷えぬ間に/明日の月日はないものを」。「明日の月日」に無常観が漂う。四節目後半も同様である。すなわち「心のほのお消えぬ間に/今日はふたたび来ぬものを」。作詞者は有名な歌人だったらしいが詳細は知らない。「ゴンドラの唄」で充分である。この歌人に拍手を贈りたい。
上記はは2001年2月、北國新聞社の依頼に応じ宗教欄『野辺の送り』に掲載された拙文である。当時この歌に私はすっかりはまってしまい、その年の7月に開催の真宗教学大会(於大谷大学)の懇親会において熱唱したほどである。老来のつれづれ、今も歌うことがしばしばである。歌詞は下記「のとおり。



吉井勇 歌人。劇作家。東京生れ。早大中退。北原白秋・木下杢太郎らと「スバル」を創刊。情熱的・耽美的な歌風で特に祇園の歌は有名。歌集「酒ほがひ」、戯曲集「午後三時」、「俳諧可楽」など。1886~1960 (広辞苑から)   楽譜は下記のとおり。

2013年11月21日木曜日

パート13

大谷派本願寺の報恩講に際会して
 今回の拙ブログ更新日はたまたま表題の時期に一致。このため急遽テーマを切り替えることに。古資料をひっくり返していたところ偶然にも下記資料が目にとまった。そこでさっそく取り上げることにした。

 
報恩講とは
 祖師の忌日に報恩のために行う仏事。延暦寺で天台大師の忌日に行う霜月会、新義真言宗で覚鑁の忌日に法然の門弟は師の忌日に知恩講を営んでおり、親鸞の教団では法然の忌日に念仏聞法の集会が恒例になっていた。(廿五日の御念仏)。親鸞の没後、このような集会は、親鸞の忌日(旧暦11月28日、太陽暦に換算1月16日)にも行われるようになり、覚如が報恩講式を著わしてから形式をととのえ、大谷の廟堂では御報恩念仏会と称して七日間行なわれた。のち勤式作法が定められて御正忌、報恩講として末寺道場にも波及した。現在、本願寺派本願寺・高田専修寺などでは1月9日から16日まで七日間、大谷派本願寺・仏光寺・興正寺などでは11月21日から28日まで七日間営まれている。なお末寺では御正忌より前に予修し、これを引上会、御取越などという。(法蔵館「真宗新辞典」から)




、読み下し
如来興世之正説(にょらいこうせのしょうせつ)、奇特最勝之妙典(きどくさいしょうのみょうでん)、一乗究竟之極説(いちじょうくきょうのごくせつ)、速疾円満之金言(そくしつえんまんのきんげん)、
十方称讃之誠言(じっぽうしょうさんのじょうごん)、時機純熟之真教(じきじゅんじゅくのしんきょう)。
金子大栄師の「口語訳・教行信証」による現代訳
 誠にこれ如来出世の本意を示す正説、奇特際勝の功徳を具うる妙典、唯一究竟の真実を詮わす極説、速疾円満の利益を恵む金言、諸仏称讃して真実を証する誠言、応化時に順い機をうるおす真教である。

私言(ひそやかなるコメント)
 この「七言六句」は『教行信証』教巻の結釈の文である。何と簡潔雄勁な文章でfなかろうか。
これに短い前文がある。即ち次のとおり。「爾者即此顕真実明証也」(しかればすなわちこれ顕真実教の明証なり)。なお結語は「応知」であるが<この点については筆者は単なる「知るべし」ではなく「まさに知るべし」と拝読する要ありと愚考する。

2013年11月14日木曜日

パート12

東日本大震災復興支援ソング「花は咲く」の歌唱
 今春以来、当方では朝夕の勤行の際「花は咲く」を私のエレクトーン伴奏により夫婦と目下寄宿中の姪との3人で常に歌唱しています。今ではよく歌えるようになり歌唱を楽しんでいます。動機と経過をご紹介すれば下記のとおり。

1 北陸中日新聞「発言」に掲載の拙文
大好きな歌謡 抜け落ちて残念
 ある人のブログの楽譜で東日本大震災の復興を応援するチャリティソングの「花は咲く」を歌唱練習した。楽譜と首っ引きで数日格闘してようやく歌えるようになった。「花は 花は 花は咲く」の繰り返しが良かった。「いつか生れる君に 私はなにを残しただろう」のフレーズが三回も出るところは一層面白かった。私は夢中で練習を続け、何とか歌えるようになった時点で添付の歌詞を見てびっくりした。あるフレーズが楽譜には抜けている。それは「誰かの笑顔がみえる」のフレーズだ。黙止できず私はその人のブログにこの旨を送った。私はこの歌が大好きである。当分歌い続けるに違いない。ブログへの投書の結末も楽しみである。
 
2 インターネット(ブログ)上のやり取り


 当方から 冠省 インターネットで貴殿の楽譜により歌唱練習しています。お陰で大体歌えるようになりました。この段階で一部のフレーズが楽譜から脱落しているのに気が付きました。第一節「誰かの笑顔が見える」。大事なフレーズと思われ一筆しました。不一
 先方から ご指摘ありがとうございます。修正した画像を付け替えましたのでご了承下さいませ。
  

2013年11月7日木曜日

パート11

前回において「過去十年にわたる高齢者の自死の推移」をを取り上げた。続く今回はそのえんちょうである。テーマ次のとおり。

平成14年~平成23年までの
自死者数一覧表
   詳細については下表のとおりでふる。グラフ化すれば下図のとおり。




  

概括的にコメントすれば下記のとおり。
  1 既往十年間の自死者総数300,988人。年平均約30,000人。
  2 中年層が半数を占める。ことに中年層前期(35歳~49歳)において最多である。(全体の31,9㌫)。社会のバックボーンに当たる年代層であることを思えば決して軽視できない。
  3 老年層の自死も26,2㌫。自死4人に1人が高齢者であることに目を伏せてはならないであろう。これもまた悲しい現実というべきか。